見出し画像

短編『ぼくらが最後に触れた夜』

『 ぼくらが最後に触れた夜 』



 妻と恋人関係になったのは成人式の夜だった。二年ぶりの再会だった。二次会を出た後に妻からメールが飛んできて、ふたりだけでドライブに行った。ぼくらは亡霊が出るという噂の城址公園の駐車場に妻の軽自動車を停め、その晩のうちにセックスをした。コンドームは初めからしなかった。妻も初めから生でスルことに眉根を寄せなかった。ある意味でぼくらは、初めから、いずれ子を産むことを視界の遠くに見据えていた。
 約七年、安いアパートで同棲した。ぼくらは互いに一匹ずつ、猫を持ち寄った。妻は柔らかい毛のトラ模様の猫を持ち寄り、ぼくは薄暗い性格のカフカという猫を持ち寄った。カフカは母がパート先のスーパーで拾った猫だった。拾ったとき、カフカは生後一月に満たず、誰が棄てて行ったのか、ちいさな段ボールのなかで蟻の群れに喰われかかっていた。
 親指よりやや大きいくらいの、頼りないいのちがここにある。ぼくは中学の裏の動物病院にカフカを連れて行き、そこで教わった通りにスポイトで口中に水を垂らしてやり、胡坐をかいてスウェットの生地をハンモックのようにたわませ、その安穏のなかでこの子猫を育てた。
 生後一月で生死のぎりぎりを味わったせいか、カフカは誰にも心を開かなかった。母親にも、当時同居していた祖母にも、兄にも父にも懐かなかった。ただぼくにだけ懐いた。ろくに開いていない黄白色のねばついた瞳で、トイレへ立ったぼくを探してくうんくうん鳴いた。危うい足取りでぼくのあとをついて回った。生まれついての孤児で、賢い猫だった。顔つきが美しくもあった。成長すると真っ青な大きな瞳となって、血統書でも付いていそうな上品で滑らかな身体つきに育った。
 顎を寄せ、ぐるぐると喉を鳴らすカフカを撫でながら、こいつはぼくに似ていると、良くそう思った。ぼくという例外はあるにせよ、カフカは誰も愛しておらず、誰にも心を開いていない。誰かを憎んでもいない。すべての他人を、残酷な無関心さで興味の外へ追い出している。 
 ぼくもカフカと同じだった。誰のことも好きになったことがなかった。異性にも、友人にも、ほとんどまったくと言って良いほど興味がなかった。身長が高かったおかげで、思春期の季節には蜜蜂のように異性が言い寄って来るようになった。ぼくは自分に害のすくない順に異性を選択し、その娘たちが害を持つようになるまで自分の傍に置いた。大抵は、数か月も経つとぼくの無関心さに気づかれ、無害な女も害のある女に豹変した。女たちは口々に「あなたという人が、わからない」と言った。「心がないような気がする」と言い当てて言った女もいる。泣いてしまう女もなかにはいた。ぼくは多少やりきれなくはあったが、彼女たちに芯から同情することはなかった。嘘くさいメロドラマの世界観に浸っていて、鼻白む気持ちもあった。しかし一番には、今この時間を無駄に浪費されているという、些細な苛立ちのほうが強かった。
 カフカはぼく以外の他人を、冷蔵庫を見るのと同じ瞳で眺めていた。そこがぼくに似ていた。ぼくらは同じ種類の心の病を患っていた。同じ肺病同士の者が喫煙所で交わすような友情が、ぼくらの間には流れていた。


 ぼくと妻の間に子供が産まれたのは二年前のことで、寒波の来た真冬の昼間だった。トラックから荷下ろしの仕事をしている最中に、病院から連絡が来た。仕事を終えて病室へ入ると、いかにも幸福を届けに来たという具合に、看護士のひとりがぼくの子を抱きかかえて病室に入って来た。
 「おめでとうございます」と看護士は言った。なにがおめでたいのかぼくはわからなかった。ポケットに両手を突っ込んで立ち尽くしているぼくを見て、五十歳ほどのその看護士は少し不安そうな顔を浮かべた。「撫でますか」と看護士は続けた。「いえ」と、ぼくは短く答えた。出産の衝撃で身体の内部を無残に引き裂かれた妻は、病院のベッドに仰向けになり、「撫でてみたら」と言った。その声には命令の響きが宿っていた。眠っている赤子の頬を、ぼくは人差し指の背中で撫でてやった。年輩の看護士はホッとした様子だった。「可愛いですね」と彼女は笑ったが、ぼくはそれには答えずに再びポケットに両手をしまった。
 子が出来てからは、妻はぼくにとって「害のある女」へと豹変した。十代の頃に付き合っていた女たちの豹変の仕方と良く似ていた。妻は二十四時間なにかにイラついていた。家庭という彼女にとっての作業場が、誰かの手で不用心に乱されることを神経質に毛嫌いするようになった。若い頃は子犬のように陽気な女だったが、雨風に打たれ続けた野良犬のように、憎しみと復讐心に満ち溢れた女になった。
 付き合いたての頃から、彼女がぼくの興味の対象の枠外に出て行きそうなことは、しばしばあった。「つまらない女だな」と思うと、ぼくは何日でも口を利かなくなった。口を利かなくなった始めの数日、妻は――当時は彼女だったが――「なぜなにも話さないの」と不安そうにぼくの顔色を窺った。その質問にもぼくは返事をしなかった。この惑星にはこの女性など存在しないかのように、無反応を貫いた。一週間ほど経つと、溢れかけていたコップから水が零れるように、彼女は目を剥いて怒りを破裂させた。ときに彼女は瓶を割り、机の上のものを床に雪崩れ倒し、テレビの画面をわざと割った。しかしぼくはなにも言わず、ただじっとそんな暴れる彼女を見据えていた。彼女はぼくと感情のぶつけ合いに発展することを、期待していたようだった。ある瞬間、我に帰るような波が訪れ、風向きが変わったように今度は泣き出した。「ごめん」と彼女は言った。「もう許して」。ぼくはなにも怒ってはいなかったし、なにかを許すような立場にはなかったが、「もういいよ」と言ってあげた。この工程を経ると、女は「害のある女」から「害のない女」へと立ち戻ることを理解していたからだ。
 ある日、携帯ショップの仕事から戻ると、シンクに置かれた酒の入ったグラスを見て、妻は深いため息を吐いた。妻の視線の先に目を向けると、二歳の子どもが顔中にポテトチップスの残骸を塗りたくっているところだった。ぼくの食べかけのポテトチップスをおもちゃにしていたのだ。
 妻のため息は、ぼくという人間のすべてに泥を投げるようなため息だった。この女は、ぼくにとって「害しかない女」になったな。ぼくはそう思った。生活の全領域に不平を零し、小言を抑える術を知らず、無言でいるときでさえ、その身体のすべてがぼくへの怒りを物語っている。ぼくは、この女にぼくの生活の成層圏から出て行って欲しかった。菓子の脂でぬらぬらとした赤ん坊を抱いて、さっさとこの視界から消えて欲しかった。
 それから二ヶ月ほど、妻とは口を利かなかった。一週間が過ぎたころ、「また始まった」と妻は言った。「まただんまりが始まった。最悪」。それにも、ぼくはなにも返事をしなかった。ポトスを飾ったダイニングテーブルに頬杖をつき、ちらりと目を向け、再び読みかけていた本に目を戻した。妻は買い物袋を手に持って冷蔵庫の前に移動していた。
 ぼくからは妻の背中が見えた。「もういや」と妻は言った。「この喧嘩の仕方、本当にいや」。実際に震えているわけではなかったが、キッチンのカウンター越しに見る妻の肩は震えているように見えた。灰色と黒で配色されたこのカウンターは、家を建てる際に妻がこだわって指示を加えた細部だ。「本当に、超気分悪い」。冷蔵庫の灯りに向かって、妻は続けた。「家に帰ったら黙り込んだあいつがいると思ったら、なにも楽しくない。もう、ほんと最悪」。妻の指が冷蔵庫の縁を叩いていた。指の殴打は次第に激しくなった。「あー、無理。最悪。もうほんと無理」。妻の指は次第に速度を増し、強さも増して行った。ぼくは尻の位置をずらし、妻が冷蔵庫の中のなにを見ているのか確かめた。妻は三連つづりの子ども用ヨーグルトに話しかけていた。
 しばしの沈黙のあと、妻は冷蔵庫の奥からサラダの入った皿を引っ張り、それをそのまま地面に落とした。カウンターに隠れて皿が割れるところは見えなかった。割れる音だけがした。二歳の息子が眼を剥いて、音のした方向を見ていた。妻は立て続けに、鯖の味噌煮の入った深皿を床に落とした。魚が陸に跳ね上がったような、水気のある音が床のあたりで響いた。「あーもういや」と、妻は冷蔵庫を手探りしながら言った。「全部いや。こいつに関する全部がいや」。床に落とす皿がすべて無くなると、妻はマヨネーズやソースの容器を落し始めた。ぼたぼたという粘土を落したような音が鳴った。息子が口を開いている。その口からは幼い下の歯が見えていた。
 いつの間にか、妻は泣いていた。あるいは、最初から泣いていたのかもしれない。シミと皺の増えた顔を真っ赤にさせ、妻は悔しそうに、涙をぽろぽろと零していた。ぼくは黙り続けた。沈黙を通すことで、沈黙という分厚くて重い鉄が、妻というひとりの人間を磨り潰すところを見てみたかった。彼女がたんぽぽであり、茎であるなら、ぼくはそれを厚いブーツの底で踏みつけにしてやりたかった。
 「カフカ」と妻が言ったのは、そのときのことだ。驚いた表情で妻が僕の背後を見ている。息子も、ぼくも、誘われるようにゆっくりと振り返った。
 窓際の猫用ソファから起き出し、カフカはぼくの方へ歩いていた。ただその足取りは病んでいた。右足を一歩踏み出すと、次に出した左足は情けなく折れた。次の一歩で、真横に倒れた。倒れたまま震え始め、食いしばった歯の隙間から泡を漏らした。カフカ、とぼくは胸中で言った。「カフカ」と、妻は叫んだ。妻が駆け寄る頃には、カフカは白眼を剥いて手足を真っ直ぐ伸ばしていた。固くなったその身体は、動物の剝製のように見えた。
 「夜もやってる動物病院を探さなきゃ」と、妻は素早くiPhoneを操作した。すぐに調べがつき、妻は手早くカフカを毛布に包んだ。息子に厚いダウンを着せ、車のキーをキッチンカウンターから奪うように取りながら、「あなたも来るでしょ?」と言った。
 ぼくらが着く頃には動物病院は通常の診察を終えていた。駐車場側にある裏口のインターホンを鳴らして中へ入ると、ダウンライトを灯した暗い階段を上り、たった一室、真四角の光を放射状に輝かせている診療室へ入り、ぐったりしたカフカを預けた。白衣を着た若い医者がカフカを抱きあげた。「待合室で待っていてください」と、その若い医者が言った。動物用の診察台に横向きとなったカフカを、ぼくは撫でてやった。カフカは半開きの口から、湯気の立つような熱い息を吐いていたが、ぼくの手の、この懐かしい骨の形に気づくと、ぐるりと喉を鳴らした。それがカフカがぼくに向けた最後の音になった。
 三十分ほど経って、途方に暮れたような姿で医者がぼくらを呼びに来た。「急遽」と、若い医者が言う。「急遽、なんですか」半身で振り返って妻が聞いた。「容態が悪化しまして」。
 縄で繋がれた囚人のように、ぼくらは医者のあとを続いて診察室に入った。ついさっき見たのと同じ姿勢で、カフカが横たわっていた。だが、呼吸も魂も、すでにこの身体を離れていた。
 ぼくは手の甲の骨ばったところで、カフカの眉間を撫でてやった。この硬い手触りがカフカは好きだった。ぐるりと喉を鳴らすはずだった。しかし、果てしのない重みのある空白が、微風のように、ぼくを飲み込み、あとは平坦な虚しさがじっと居座った。
 「どこへ行くの」。妻が言った。ぼくは診察室を出て行こうとしていた。「カフカを連れて帰らなくちゃ、駄目じゃない」。
 病院の明かりはダウンライトが灯っているだけだった。眩い光を照射している診察室からカフカの遺体を抱いてぼくらは通路へ出て、薄暗い階段を下へ降りた。「大丈夫?」と妻が聞いた。「なにが?」とぼくは言った。妻はほんの微かにハッとした。ぼくらは二か月ぶりに声を交わしたのだ。「カフカが亡くなって、……あなた、大丈夫?」
 階段の下は深い闇が満ちていた。まるで真夜中に見る静かな海のようだ。なにも見えないほど床下は暗かったが、ひそかに、数千数億のなにかが、暗く翻っている感じがあった。カフカ抜きで、ぼくはこの不気味な暗闇の波を進むのか、とぼくは思った。カフカだけが、この世界で唯一ぼくの理解者だったのに。ぼくには、あなたしかいなかったのに。
 カフカの遺体を家に持ち帰り、カフカの好きだった猫用ソファに横たえてやる。妻はカフカの記憶を、絶え間なく話し続けた。それはどことなく哀しい歌声に似ていた。「カフカは本当に、あなただけを愛していた」と、妻は急に泣き出して言った。呆れているようでもあった。「カフカの真っ青な瞳には、あなたしか映っていなかった」。その瞳は今は閉じられている。退屈なモノクロの草原のような、連綿と続く空白を眺めている。「壊れているんだよ」と、ぼくは普通に返事をした。「ぼくとカフカは同じ壊れ方をしているんだ」。妻はなにも答えなかった。数週間経って、「あなたとまた話せるようになったのは、カフカが、私とあなたの仲を繋いでくれたのかも知れない」と、妻らしい、平和な、しかしぼくには不可解な解釈をした。

 真昼の陽光がアスファルトの白線に跳ね返っている。ぼくは眩しくて目を擦り、ぎゅっとこめかみを指の腹で圧した。
 ぼくの家は二本の国道で囲まれている。どこへ向かうにもぼくらはこの国道を通るか、渡るかを選ばなくてはならない。左折して国道に合流するために、一時停止線の手前で車の流れが途切れるのを待つあいだ、この慌ただしい忙しさに馴染めるだろうか、とぼくは思った。
 片側二車線の国道の右側から、途切れることなく乗用車や、積み荷を積んだトラックや、フルフェイスを被ったバイクが雪崩れ込む。彼らは目の色を変え、まるで逃せば二度と獲られない黄金の兎を追う夷狄みたいに見える。血相を変えた彼らのこの慌ただしさ、一心不乱さが、ぼくには理解出来ない。カフカ、とようやく途切れた流れの隙間に潜り込みながら、ぼくは胸中で囁いた。なにも分からないこの世界で、ぼくにとっては君だけが唯一の手がかりだったのに。


いいなと思ったら応援しよう!