「同時代の詩を読む」 (6)-(10):清水ロカ、古川祥子、佐山由紀、匿名氏、新井啓子

「同時代の詩を読む」(6)-(10)

(6)

「裏山」    清水ロカ

その裏山があった頃
裏山にも裏裏山があり
そのまた裏裏裏山がある

だけれど山の木々にしてみたら
僕らの家々は裏町
その先は裏裏町
表街と呼ぶ人々が
行き交う雑踏
それさえ山々には裏裏裏街

お互いにこちらが表と思っていても
裏山に迷い込んだ夏の夕暮れに
僕の住んでる町を
山が引き剥がして
眼下の家々の裏側を
僕の眼に見せつけた

樹木の葉音が強く声音をたてる
探しに来た兄の声を
耳にした時
そこは静かな裏山

町がね、ひっくり返されたんだ
おい、何言ってるんだ
明日は嵐らしい、帰るぞ 

「裏山」について

奇妙な詩だなと思いました。でもなんだか面白い。そういう「なんだか」面白い詩が、僕は好きです。読んだ瞬間に、どうだこの詩はすごいだろうと、魅力を前面に出してくる詩も悪くはないけど、わからないけど惹かれてしまう詩って、僕にはない何かが隠されているようで、好きです。

最初の「その裏山があった頃/裏山にも裏裏山があり」を読んだだけで、これはなんだろう?っていう気持ちになるし、妙な詩が読めるかなという期待が持てます。

奇想の詩ではあるんだけど、それだけではなく、ものの見方についていろいろと考えさせてくれる詩になっています。裏ってなんだということにこだわって書いています。どこか金子みすず的な、向こう側から見たこちら側という視点があります。裏山というけれど、山から見たらそっちが裏街じゃないかという視点です。あっと思わせられます。特に新しい視点ではないけれども、こういうものの見方で相手を見ていくというのは大切だと思います。

この詩の特徴は、視点を変えるということにあります。見方を変えれば世界は変わる。詩を書くって、同じ世界を違ったふうに見つめて書くことなんだなと、この詩を読むとわかります。

三連目の「僕の住んでる町を/山が引き剥がして/眼下の家々の裏側を/僕の眼に見せつけた」のところは、ちょっと強引かなと思ったけど、これくらいやってもいいのかも知れません。町を引き剥がすなんて、ダイナミックな行為です。特撮でもしなければ映像にできないことも、詩では簡単にやってのけることができます。

清水さんは、こんな感じの詩ばかりではなく、様々な感じの詩を試みています。いろんな詩を書いている中で、ふと自分の個性がぴったり合わさった詩が出来た。こうやって、素敵な個性が出来てくるんだなと思います。

確かに詩を書くというのは、モノの見方を変えてみることでもあります。

(7)

「夏の旅行」  古川 祥子

十歳の時
家族で山梨県の清里へ行った
母が計画してくれた夏の旅行だ
妹とわたしと母と
電車とバスを乗り継ぎ、さらに歩いて
「グリーンゲイブルス」という名のペンションを目指した
(父は一緒ではなかった。翌年また訪れたが、その時もなぜかまた女旅だった)

ペンションというところには初めて泊まった
林の中に佇む赤毛のアンの世界
共通のリビング・ダイニングには他の宿泊客も集まり
置いてある絵本を一緒に読んだり
夕食を共にしたり
初対面の人々と生活の時間を共にする心地よさを知った
(夜トイレで大きなコオロギと目が合って、大慌てで部屋に戻った、なんてこともあったけど)

清里はとても素敵なところだった
どんなに手を伸ばしても抱えきれないような広い空の下
広々とした牧場で、風に吹かれながら食べた焼きトウモロコシは
香ばしくて甘くて、いまだにその匂いと味が忘れられない
プリンス・エドワード島ってこんなところかしら

一泊の旅行を終え、また電車を乗り継いで帰る
帰りの電車というのは、なぜこんなに気怠いのだろう
中央線への乗り継ぎ時間が短い
女三人は走った
しかしわたしの四つ下の妹はさすがに小さい
階段を駆け下り、母とわたしは電車に飛び乗ったが
妹は電車のドアの向こうに弾き出されてしまった
「あ」

わたしは
こころの底のそのまた底の方でニヤリと笑った
「これでお母さんと二人きり」
わたしは永遠に妹が電車に乗れなければいいと思った
一瞬のことだった

ううん
その前に、階段を駆け下りるとき
妹が遅れているのを知っていたけど
このままでは妹だけ乗れないだろうことも知っていたけど
わたしは助けなかった ここではぐれればいい、と予見していたのだ

次の瞬間
乗り合わせた力自慢の男の人が
力いっぱい電車の扉をこじ開けた
妹はなんとか乗り込むことができた
母は男性に腰を折って御礼を言っていた
わたしは安堵と恨めしさが
しめ縄のように交互に織り込まれた気持ちを抱え
まだまだ時間のかかる帰路を過ごした

三十年近く前の
爽やかな夏の匂いと 人々との暖かな交流
 そして 
ざらりとした嫌な舌触りの気持ち

夏の旅行の思い出

「夏の旅行」について

ちょっと長い詩ですが一気に読めます。

前半は家族での旅行体験を書いていて、ほのぼのとした詩なのかなと思っていると、後半で妹が電車に乗り遅れて、そのあたりから読者をぐっとひきつけます。

「妹は電車のドアの向こうに弾き出されてしまった」のところは、読んでいるほうも思わず「あっ」と声が出そうになります。

何を詩に書くか、ということを、この詩を読んでいると考えさせられます。人に見せたい部分だけを書いていても、読む人には届きません。詩をきれい事で終わらせないという覚悟で書いているところが、この詩が読者に鋭く突き刺さる理由です。

単に、楽しい旅行をしました、妹が電車に乗り遅れて困りました、で終わらせずに、その時に実は自分の中に生じた意地悪な気持ちがあったのだという、それをあからさまに詩に書くというところに、作者の覚悟とセンスを感じます。

もしかしたらこの詩を書かなければ、作者はその時の心情を思いだすこともなかったかもしれません。書くことによって自分の気持ちを知る。詩とはそういうものです。普段の自分が気付かない(気付こうとしない)心理の階段を、一段下りたところにある真実をこの詩は書いています。「わたしは永遠に妹が電車に乗れなければいいと思った/一瞬のことだった」の吐露は何度読み返してもすごいと思います。

こういった心情はもちろん作者だけのものではなく、ほとんどの人が持ち合わせています。生きているとたまに、人生の電車に乗り遅れればいいと思える人が現れてきて、でも残念ながらその人はしっかり乗ってきてしまったりするのです。自分はそんなことを思っていたのかと、愕然とします。

自分の本当の気持ちとはなにか、ということをあらためて考えさせてくれる詩になっています。

(8)

「五キロ」 佐山由紀

私の影はどこへ消えてしまったのだろう

日々に埋もれる自分の価値を見失った時に

  五キロのお米を抱くのが好き
  スーパーマーケットで
  五キロのお米を買おうと持ち上げると
  縦抱きしたり横抱きしたり
  背中をとんとん叩いたりしてしまう
  愛しい温かい懐かしい重みに
  五キロだった彼女を思い出すから
  彼女は笑う
  「お米の持ち方が変だよ
  あたしが持ってあげる」
  って
  五キロのお米を両手で持つ彼女は
  何袋分の重さになったのだろう
  初恋を覚えた彼の恋の相談に
  嬉しくって喋り過ぎてしまった

母性の存在価値の深さを見つけた幸せ

私の足元から私の影はしっかり伸びていた

来週も五キロのお米を買いに行こう

「五キロ」について 松下育男

詩というのは不思議なものです。普段ならなんでもない言葉が、詩で書かれると驚きに変わることがあります。この詩を初めて読んだ時に、「五キロのお米を抱くのが好き」の一行にホントに驚きました。こんなにまっすぐにニンゲンの感想を述べることが出来るなんてすごいなと、心底思いました。

この詩のいいところは、まさに触感や重さの感覚が、読んでいるとじかに伝わってくるところです。ですから三行目の「五キロのお米を抱くのが好き」からの五行はとにかくすばらしい。特に「縦抱きしたり横抱きしたり」のところと、次の「背中をとんとん叩いたりしてしまう」の二行は好きです。読んでいるだけで、その重さを二の腕に感じてしまうから不思議です。

この五キロはお米の五キロを意味しているだけではなくて、こどもの体重の五キロも意味していて、つまりは生存を二重に含んでいる重さでもあります。生きていることの重みそのものを感じることによって、作者が見失っていた自分のありかを、その重さの中に見いだすという主旨です。とてもいい詩です。

最初に「私の影」とか「埋もれる価値」とかが出てきて、観念的な詩なのかなと思っていると、詩はすぐに頭(観念)から腕(モノ)に降りてきて、こういうことなんだよと思考の中身を見せてくれています。主婦であることのなんとも言えない悲しさを、作者ははしっかり書き留めています。生(なま)の感覚を書ける詩人って、そんなにはいないと思います。

(9)

「余分なもの」    (匿名氏)

不順な天候が続いている
からだの隅に小さな沼を持っているひとが
この辺りにも何人かいるらしい
そこにも重い霧が立ち込めているようだ
次第に息苦しくなると
むりやり押し出される
同じような咳をしながら歩いている人が
増えてきた
あのひともこのひとも
咳といっしょに
何か吐き出しているようだ
カフェの窓から
それを見ている
三つの坂のぶつかるところ
わたしは両手の中に吐いている
そうしてコートの下に隠している
霧が雨になり
白い咳が見えるようになった
(余分なものは急いで捨てなければ
(取り返しがつかなくなる
聞いたことがあるような声に
振り返えさせられる
自動ドアをすり抜けていく
黒い背が見える
間に合うだろうか
沼の泥に沈んでいるのに
同じものが違うところでも
次々と吐かれているにちがいない
サングラスをかけ
フードを被り
マフラーで塞いで
夕暮れの人ごみのなかに
まぎれにいく

「余分なもの」について

今日の詩も匿名にしてくださいということなのでそうします。この詩の作者はこれまでにも多くの胸をうつ詩を残してきました。そのことを本人はどこまで自覚しているのだろうと、僕は時々思います。そんなつもりもなくすぐれた詩を残してゆく人っているのです。

最初の三行でぐっと引きつけられてしまいました。「からだの隅に小さな沼を持っているひと」ってどんな人だかわからないけど、雰囲気はわかるような気がします。そして僕も、そんな人のひとりではないかと思ってしまいます。この詩に惹かれる人はみな、たぶんそれぞれの沼を脇の下あたりにたくわえているのです。

「そこにも重い霧が立ち込めているようだ/次第に息苦しくなると」のところを読むと、コロナが蔓延している世界を思い浮かべてしまうけれども、この詩が書かれたのはもっと前。だからコロナのことなんか知る由もなく書いたのだろうけど、詩そのものは、もしかしたら心の沈み具合を予見していたのかもしれない。

「あのひともこのひとも/咳といっしょに/何か吐き出しているようだ」と書いてありますが、「何か」ってなんだろう。詩を読むって、この何かを想像することなんじゃないかと思います。剥がそうとしても剥がれない自分自身の一部のような気もします。

そのあと詩は、急に外に目が向けられて、カフェの窓から外を見ます。それにしても「三つの坂のぶつかるところ」って実にきれいな表現です。たぶんどんな三つの坂がぶつかっている所よりも、この言葉の方がきれいなのではないかと思います。

「取り返しがつかなくなる」と、泣きたくなるほどに焦る気持ちを、僕はかつて持ったことがあります。長い人生の過程で、多くの人はそんな気持ちを一度は抱えて生きたことがあるに違いありません。

この詩は、この詩人の体験をもとにして書かれたのだろうと思います。でも、具体的に何があってどうだったということはなにも書いてありません。ただ心がこのように揺れたのだと書いてある詩です。その揺れから、読む人それぞれの体験に溯ってゆける詩になっています。一篇の詩はひとりの作者から生まれるけれども、多くの読者のもとへ帰ってゆきます。

(10)

「旅の話」 新井啓子

親戚が集まると旅の話が出る
バスを貸し切りみなで温泉に行ったこと
小諸の懐古園を蚕園と間違えて
お蚕はイヤだと子ども達が泣き出したこと
関西での結婚式帰り 
国鉄のデモで新幹線が動かず
一族駅前広場でウェディングケーキを頬張ったうえに
いつもはおとなしい次男坊が 窓口に詰め寄って
兄姉を驚かせたこと

集まるたびに
みなが思い出話をする
何度もなんども同じ話が語られる
語る人数は減っていくが
語られる人数は変わらない

いなくなってもいつも語られる人がいる
本当にあれだよね
全くあれさ などと
よくもわるくも
何度もなんども繰り返し語られる
会ったことはないけれど 
これはよほどの人に違いない

誰にも語られなくていい
できることをする
何ができるかしらないけれど
納豆臭い靴下の下洗いをしたり
仕事を休んだときのために準備をしたり
ひとりひとり出かけて行くのを見送って
大雪の日には骨壺をあん行か火がわりに抱えて帰る
そんなことばかり繰り返し
旅の支度は押し入れの隅に置いて 
みなと一緒に話の旅に出る
何度もなんども語られるので
行ったきり帰れそうにない

「旅の話」について

 ぼくがこの詩を好きなのは気負いのないところです。詩を書くぞ、気の利いたことを書くぞ、というよりも、作者はその時に感じていたこと、考えていたことを素直に書いています。突拍子もないことを書いた詩を読むのもいいけれど、この詩のように普通に感じたことを静かに語られると、安心して聞きたくなるものです。

 詩というのは、正直な気持ちをありのままに書いているうちに、書いたもの自身が書くべき新鮮な面を提示してくれる。この詩を読んでいるとそう思います。

 この詩でぐっと来たところが三ヶ所あります。一つ目は「語る人数は減っていくが/語られる人数は変わらない」のところです。「語る人数は減っていくが」は、亡くなった高齢の親戚のことを示していて、たしかにこれってだれでもが感じていることです。亡くなってゆく人は増えていって、残る親戚は減ってゆく。残酷な事象なのに、驚いてもしかたのないことではあります。人は減っていっても「語られる人数は変わらない」は、言われてみればそうだなと思います。

 親戚の集まりとか知り合いの濃さって、盛りの時期と衰えてゆく時期があって、いつかは無くなってしまうというのはあたりまえではあるけれどもほんとに不思議だなと思います。いつも語られている人のことも、いつかだれにも語られることがなくなるということです。

 僕がぐっときた二つ目は「誰にも語られなくていい/できることをする」のところです。ここも、なるほどそうなのだなと思います。誰かに語られるための人生なんて送る必要はないのであって、いつだってかけがえのない自らのために精一杯生きていればいいのだと思います。

 それからぐっときた三つ目は最後のところです。「何度もなんども語られるので/行ったきり帰れそうにない」。ちょっとドキッとします。「行ったきり帰れそうにない」私は、その場所に立ち尽くして途方に暮れてしまいます。その時に見上げた空が見えるようです。こっちに帰るにはいったいどうしたらよいのだろう。

この世はこっち、あの世はあっち。こればかりは軽く言うしかないのです。

 人に深く入り込むものを持った、重い一篇であると思います。

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