[書評] 言語が違えば、世界が違って見えるわけ
みなさん、こんにちは。Naseka です。
私は 哲学者・書評家・エッセイスト として、
自らを定義しています。
私は外国語の類は
どうにも一向に身につかないのだが、
方言の類は割と苦もなく習得できるから
言語的なセンスは
それなりにある方だと思っている。
(外国語が身にならないのは、
真に必要に迫られていないから
だと思っている)
もっともそれをいうと
「方言なんて同じ『日本語』の
カテゴリーなのだから、
苦もなく習得できて当たり前だろう」
と思われるかもしれないが、
意外にそうでもない人もいるらしい。
方言によっては、
「標準語では何とも
『しっくりくる』表現ができない言葉」
というものがある。
仙台弁の「いずい」とか
関西地方で使われる
「シュッとした」なんてのが一例だ。
もちろん あーだこーだ 意味を
伝えることはできるのだが、
ズバリ「これ」という一言での
言い換えが利かない。
この極東の島国ひとつ
(しかも陸続きの本州)
だけを見てもこれなのだ。
国を跨いで言語が変われば、
その概念の違いたるや
想像し難いレベルであろう。
事実、適当な訳語が存在しないために
カタカナでそのまま輸入された言葉も多い。
完全な思い付きだが
「ルサンチマン」とか
「ヒュッゲ」とかが、その類である。
適当な訳語がないということは、
その言語文化において同様の概念が
存在しないということである。
なるほど、異文化を知る面白さの一端が
垣間見えるというものだ。
…などということが日頃から
気になっていたわけではないのだが、
この本に興味が惹かれたのは
さてなぜだったか。
とにもかくにも、
そんな言語と概念を巡る旅に
連れて行ってくれる
非常に面白い本が 今回の題材である。
認識できないものは言葉にならない
この本の冒頭は色の話から始まる。
私には絵心がないということは、
知り合いの中では割と有名だし
度々ネタにもしていることではある。
その理由を挙げていったら
いつ数え終わるか分からないので
避けておくが、
数多ある理由のひとつに
「色彩感覚が乏しい」
というのも含まれそうだ。
色覚判定的には特に変わった傾向は
見られないのだが、
なんとなく他人が
「これとあれは別の色だよね」というのを
理解できないことがある。
それこそパソコンなんかを駆使して
隣同士に色を並べて
ようやく分かるかどうか
(分からない場合もある)
といったレベルである。
たとえば同じ「緑色」と
言ったところで、
「ピーマンの緑色」と
「キャベツの緑色」なら
私にも違いが分かる。
似たような緑色を指して
言葉で伝えようとしたら、
実際にそのように表現するかもしれない。
だが「新鮮なキャベツの緑色」と
「鮮度が落ちたキャベツの緑色」は
私には分からない(味覚でも自信はない)。
違いが分からないのだから、
当然 この2つの色の違いを
言葉で説明することは
私にはできない
(たぶん味でもできなさそうだ)。
瑞々しさとか緑色以外への
変色はともかく、
人によっては
「キャベツの緑色」だけを見ても
鮮度の違いが分かるという。
何をくだらない話をしているのかと
思ったかもしれないが、
これは非常に大きな「気付き」である。
色から始まった話だが、
何も視覚的なものに限ったことではない。
驚くべきことに、人間は
「自分が認識できないものは
言葉にできない」
ようなのだ。
だから
「適当な訳語が存在しない言葉」
というのは、
元々 その概念自体が
その言語(たとえば日本語)にとって
全く新しいものであると言える。
だから「いずい」という概念を
説明しようとする仙台弁話者は
「『いずい』とは、これこれ
こういうような感覚で…」
と その「概念」を伝えることになるから、
時に説明ったらしい話になるわけだ。
(「シュッとした」についても同様)
そんな説明を横で聞いてると
「いや、長々とした説明じゃなくて
一言で言ってよ」
と思ったときがあったが、
こうした背景を理解すると
ずいぶん無理難題であったのだと
内心で反省する。
前後左右は人類共通じゃない!?
問題はこういう「概念」が
どのレベルまで違っていて、
どの部分までが人類共通なのかである。
色の概念が違うのは
読んで早々に分かった。
感覚的な部分については、
方言の例があったから
本を読む前から
何となく理解はできていた。
たしかに生活環境によって
目にするものや色は違うし、
感覚的なものなんかも
違いがあって当然だろう。
だが、そうだ。
同じ「ヒト(人間)」として
共通の部分ならどうだろう。
例えば今、自分が北を向いているとする。
東側の手を示したいときは
「右手」と言うし、
西側の手なら「左手」だ。
回れ右をすれば、
東側の手を示したいときは
「左手」と言うし、
西側の手なら「右手」になる。
よほどの意図がない限り、
「東側の手」とか
「西側の手」なんて呼ぶ人はいないだろう。
なるほど「正面」とか
「前後左右」といった概念は、
どうやら人類共通そうだ。
人種や生活環境に依らず
「正面に進む」とか
「右に曲がる」という
概念がないヒトなど
存在するはずがない。
…と思うだろう?
実は方向を示すにも
「前後左右」という
「自己中心座標系」ではなく、
「東西南北」という
「地理座標系」で
会話をする文化が
実際に存在するらしいのである。
その文化に生きる者にとっては、
私が箸を持つ手が
東西南北どこを向いていても
「同じ側(右側)の手」である
ということが、
どうにも理解ができないらしい。
彼らに言わせれば、
「いや、北を向いたときと
南を向いたときでは
逆側の手になるでしょ」
となるのだそうだ。
(実際に会って確かめたわけではないので
「らしい」としたが、
本書には確かにそう書いてある)
いやはや、「前後左右」すら
「そんな概念を持っていない」
という文化が存在するとは!
世界の多様性とは、皆が軽々しく
口にできるようなレベルではないと
改めて思い知らされた。
まとめ
…とまぁ、こんなレベルの言語と
その文化の違いが他にも紹介されている
非常に驚かされっぱなしの1冊である。
個人的にあまりに面白い学びが
多かったものだから、
つい具体例を挙げて紹介してしまった。
同じ文化圏の中で生きていると
「当たり前」の範囲が
広過ぎて分からないが、
世界の「当たり前」というのは
これほどまでに狭いのか
(=当たり前でない範囲が広過ぎる)と
本書を読んで思い知らされた。
大きなトンカチで
頭をかち割られたような
衝撃を求める人には、
ぜひオススメしたい本である。
こんな人にオススメ!
・言語と概念の関係性や違いに興味がある人
・自分の中の「当たり前」の感覚を破りたい人
こんな人には合わないかも…
・この書評を読んでも興味が湧かない人
(このような話がたくさん出てくる)
お読みいただき、ありがとうございました。
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