健康マインド(心に残る言葉❗)太宰治「それだから、走るのだ。」
「走れメロス」
それだから、走るのだ。
信じられているから走るのだ。
間に合う、間に合わぬは問題ではないのだ。
新編シラー詩抄(小栗孝則訳)を下敷きにしたと言われる「走れメロス」 小説の末尾には(古伝説とシルレルの詩から)と添えられています。
古代ギリシャの伝承とドイツのシラーの詩を基に創作したのは事実のようです。
短編で教科書にも載ってる太宰の代表作として知られています。
教科書では(徳目)→(友情の美しさ)を名文で謳い上げた作品として紹介されています。
放蕩な文学者の純粋な才能の一面として扱うから教科書にも採用されたのでしょうが、文学史的には檀一雄の「小説 太宰治」に出てくる熱海での乱行が創作の基だとの説が真相だと思います。
熱海に遊びに行った太宰から(金がなくなった。)との連絡を受けた太宰の内縁の妻が檀一雄に金を渡して連れ帰るように依頼する。
その金で二人で遊んでしまい、太宰は(金を工面してくるから待っててくれ!)と出かける。
檀は熱海で待っているが連絡がなく、飲み屋の主人から迫られてどうしようもなくなり太宰を探しに行く。
井伏鱒二の家で将棋を指している太宰に激怒する檀に太宰は「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」と言う話です。
これが「走れメロス」の創作の動機だと檀一雄は書いていますが、太宰が書いてないのでわかりません。
寺山修司は創作動機とは別にメロスの自己中心性・自己陶酔が嫌で「歩け、メロス」の文を寄せています。
創作動機と過程は作品の質とは無関係です。
私が中学生2年の時に読んだ時に心に残ったのは❗この場面でした。
一人の少女が赤いマントをメロスに差し出す。まごつくメロスにセリヌンティウスが「この娘さんは、メロスの裸体を皆に見られるのが、悔しいのだ」と教えてあげると、メロスは赤面する。
「へぇ〜」と思いました。あんまり立派な話なので恥ずかしくて太宰がこの最後の場面をいれたのかな〜と思いました。
それでも、一睡もせずに走り続けるメロス、山賊に襲われ灼熱に焼かれるメロス、走るのはやめろと言われても走り続けるメロス、一度裏切ろうと思ったと告白したメロスに感情移入していました。
太宰の文才が発揮された名文だと思います。
小説家に放蕩が必要だとは思いません。
太宰の面倒を最後まで見た井伏鱒二に放蕩の影は見えませんが「山椒魚」を産み出しました。
もしかしたら、太宰治は「山椒魚」みたいな話を自分も書きたかったのかも知れません。
しかし、井伏の(ひょうひょうとした味)が出せずに(悲壮な話)になってしまい、最後の場面を入れたのだろうと私は考えました。
多分 太宰も井伏先生のように富士山を眺め、地に足がついた生活をしたかったのだろうな〜と思います。
でも、それだと太宰の才能では小説が書けなかったのかも知れません。
太宰治の生涯を賭けた(悲壮感)は私の心に残ります❗
間に合う、間に合わぬは問題ではないのだ。
信じられているから走るのだ。
「それだから、走るのだ。」
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