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健康マインド(心に残る言葉❗)宮沢賢治「僕はきっとできると思う。なぜなら僕らがそれを今、考えているのだから。」

「ポラーノ広場」は宮沢賢治の短編集です。
1934年 賢治が亡くなった翌年発表されました。
イーハトーブを舞台に少年達が伝説の「ポラーノ広場」を追い求める話です。
賢治の理想郷、農村のあるべき共同体を構想して生前何度か書き直されている原稿を編集して出版しました。
その中の最後の章「6.風と草穂」

原文
「ぼくはきっとできるとおもふ。なぜならぼくらがそれをいま かんがへているのだから。」

アンチ賢治派の人は、宮沢賢治の作品群の(宗教性)に対する批判を言う場合があります。
確かに賢治は「国柱会」に入信して法華信仰を広める活動をしました。
農業学校を卒業してから、寒修行として花巻市内を太鼓を叩き、題目を唱えながら歩き、浄土真宗の父親と対立しています。
賢治の文学作品に(布教の動機があった!)のも事実だと思います。

「盛岡高等農林学校」首席入学して寄宿舎「自啓寮」に入寮します。

この頃が賢治の一番(輝いていた時期)だと思います。

前年は(発疹チフス)で入院、看病してくれた父親にも感染して負い目を感じ、入院中には看護婦に恋愛感情を持ち「結婚したい❗」と両親に申し出ています。
「若すぎる」と相手にされず、中学卒業して家長の祖父には(商人には学問不要)と言われていました。

農林学校に父親の尽力で進学できて、一心に勉強に打ち込み、首席入学の成果を得た賢治の輝く時期でした❗

その後の賢治の人生に良い事はありません。農業指導の仕事も(金持ちのお遊び)と言われ、宗教にすがった事もあったでしょうね。
擁護者だった父親との信仰上の対立にも心を痛めた事でしょう、作品創作に関しても何度も書き直し、散財するだけで評価を貰えず、恋愛も上手くゆかず家庭を持つ事もできません。
病気も賢治から離れませんでしたので、賢治の作品に楽天的な部分は見られません。

26歳の時には最愛の妹(トシ)が病死してしまいます。

「3歳のトシと5歳の賢治」

トシの葬儀は宗派違いで賢治は列席せずに、出棺の時だけ現れて棺を担いだ。
残された賢治の言葉には「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない。」があります。

賢治の生涯は、裕福な実家に産まれながら、病気で苦しめられ、ちょっと良い事があっても、なかなか上手くゆかず、愛情に恵まれましたが、豊かな交流ができず、自責の念が拭えず、頼りにされず、ため息をつくことが多かった。

有名な「雨にも負けず」は遺書でした。

賢治の手帖の中の「雨にも負けず」

しかし残った作品には「希望」があります。
運命に耐える賢治の「希望の言葉」があります。 

ポラーノ広場にある「僕はきっとできると思う。なぜなら僕らがそれを今、考えているのだから。」が心を打ち、いつまでも心に残るのはそこに「希望」があるからです。


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