健康マインド(心に残る言葉❗)テレサ・テン「あなたをこれ以上、愛するなんて、わたしには出来ない」
♫ 「別れの予感」
泣き出してしまいそう
痛いほど好きだから
どこへも行かないで
息を止めてそばにいて
身体からこの心
取り出してくれるなら
あなたに見せたいの
この胸の想いを
教えて悲しくなるその理由
あなたに触れていても
信じることそれだけだから
海よりもまだ深く
空よりもまだ青く
あなたをこれ以上愛するなんて
わたしには出来ない
数多いヒット曲のなかで、一番私の心に残る曲「別れの予感」
の最後のフレーズ
「あなたをこれ以上、愛するなんて、わたしには出来ない❗」
1953年 台湾で産まれた「鄧麗君(デン・リージュン)」
10歳の頃からラジオ局の歌唱コンテストで優勝❗
天才少女と呼ばれて14歳でプロ歌手デビューします。
16歳で主演映画が製作されて女優デビュー。
シンガポール・マレーシア・香港でもレコードリリースして「アジアの歌姫」になってゆきます。
多くの小唄を歌い、幅広い年齢層に親しまれます。
特に「路辺的野花不要採(野の花を摘まないで)」という曲は、彼女が歌った小唄の代表曲となり、今でも広く歌われています。
香港でプロデュースをしていた舟木稔が人気に目を付け、テレサと両親を説得して契約し日本デビューを実現させます。
21歳になって「日本ポリドール」からデビュー❗
デビュー2曲目の「空港」が大ヒットして日本でもトップスターになります。
当時1972年の「日中国交正常化」の影響で台湾との渡航は制限されていました。
1979年、テレサがインドネシアのパスポートで来日した時に旅券法違反で1年間の国外退去処分を受けて、台湾からも非難される事態になってしまいます。
この問題を発端にテレサの動向が政治的にも注目され、1年後台湾政府への協力を条件に帰国を許され、中華民国国軍の広告塔として活動したと言われています。
1980年代には、文化大革命を終えて「文化砂漠」となった中国本土にテレサの歌声が入ったカセットテープが出回ります。
中でも特に人気だったのは、1930年代に中国で流行した「何日君再来(ホーリーチュンツァイライ)」(作詞:貝林 作曲劉雪庵)のカバー。
やがて彼女は、冗談交じりに「昼は鄧小平、夜は鄧麗君(テレサの中国語の芸名)が支配する」とまで言われるようになり、影響力を懸念した共産党政府にテレサの歌は放送禁止になってしまいます。
1984年 日本再デビュー❗「つぐない」「愛人」「時の流れに身をまかせ」と大ヒットを連発します。
1986年には中国本土でテレサの歌が解禁され、コンサートもできる様になりアメリカでもデビュー、米タイム誌に「世界7大女性歌手」に選出されました。
しかし!1989 年6月の「天安門事件」で1990年に予定されていた、テレサの両親の産まれた中国本土でのコンサートが中止になってしまいます。
最期はパリで単身の暮しを送ったとの事。
何があったのかは判りませんが「アジアの歌姫」と呼ばれた彼女がパリで単身生活は、ちょっと寂しい❗
今回取り上げた「別れの予感」は1987年6月のリリースで、事件のちょうど2年前ですね。