中国ドラマ「陳情令」から読む老子 - 運命を背負う主人公たち
陳情令から読む「老子」今回は魏嬰と藍湛の運命に関係する章を。このほか、物語のテーマ編と番外編的なのを別に書けたらいいなと思っている。
前回も書いたけれど「陳情令」脳で「老子」を読むと、ドラマのシーンが自然に頭に浮かんでくる。陳情令わかる感がぐっと増す感じで面白い。
つい150年ほど前まで、この列島では長い間、中国古典思想を教養の共通言語にしていたのが、今やこうして一生懸命調べないと見えないほど遠い世界になってしまったのは(私だけ?)ちょっともったいない感じがする。
学生時代の漢文の授業、中国ドラマの理解には大事かもしれない。
さて、主人公たちの運命を「老子」の中に見てみよう。参考書は保立道久著、ちくま新書「現代語訳老子」。テレビドラマ「陳情令」の脚本と演出をもとに考えるので原作の意図とは違うかもしれない。そこはご容赦を。
天命を生きる 魏嬰 老子78章、70章
登場人物の中でも断トツに紆余曲折の人生をたどる魏嬰。彼はいつも埃にまみれ、地面にはいつくばり、雨に打たれ、それはひどい苦難を受け続ける。その運命を示す章が「老子」にあると思っている。
78章は、水の性質「柔よく剛を制す」から展開して国や社会の話になるが、「陳情令」脳でこの章を読むと、目は後半の受国之垢と受国不祥にいってしまう。
魏嬰は、単に不運な星回りのせいで地面にはいつくばっているのではないらしい、と思えてくる。魏嬰自身、この78章を自分ごととして理解しているような、そんな台詞がドラマ第43話「重なり合う心」にあることを思い出す。
「あの事件が起きなかったとしても、きっとほかの何かが起きただろう」
魏嬰が前世を振り返りつつ藍湛に語る場面だ。
この台詞は陽気で怖いもの知らずの魏嬰とは感じが違い、文字通り死ぬほど苦労したせいか、ずいぶん悟ったなあと思っていた。だが老子78章を知ると、あの時の魏嬰はすでに、自分の聖人としての天命、世のけがれを引き受ける立場を自覚しているんだな、そう思えてくるのだ。
魏嬰の生きる世界について、もう一つ老子70章にも触れたい。
保立先生によればこの訳は、本文後半「則我者貴」の貴を「匱」という漢字の略字と考えての解釈とのこと。この保立訳を読むと本当にその通りと思う。魏嬰の理解者は稀で、同じく行動してくれる人は少ない、というか、藍湛しかいないのだ。
魏嬰の字、無羨のとおり彼は社会的な地位に全く関心を示さないが、そもそも自分の意図は人には知られないものだという覚悟を持っているからではないか。魏嬰のかっこよさは、こういう尋常ならざる覚悟にあると思う。普通の人間にはできないことだ。
修行の実践者 藍湛 老子2章、56章
ドラマの中で、藍湛はとにかく寝ても覚めても修行している。修行していないときはない。なかでも不言の教えは彼の修行の中核のようだ。そんな彼の理解には、例えばこちらの老子2章。
訳を部分抜粋にしたので少しわかりにくいかもしれない。全体訳はぜひちくま新書を読んでいただくとして、解説に「事柄の評価は、認識する側の姿勢によって異なってくる」とある。美しいものを美しいと知るのは悪いものがあるから。では物事に対処する時、どう向き合ったらよいのだろう。
そう、藍湛はただ無口なのではない。言葉をあえて封印するのは真理に近づくため。不言の教えの実践者、聖人の姿だ。ドラマの中で一人、的確に状況や人物を見抜いていけるのはなぜか。不言の教えに真摯に向きあう藍湛の、日ごろの修行の賜物だろう。
彼のかける禁言術もたぶん、ただうるさい相手を黙らせているのではない。藍湛にとって言葉を発するとは、それだけ重みのあることだから。禁言術をかける相手に対しても、真理に到達する道を自らふさがないように警告する、そういう意味がこめられていると思う。
そもそも、藍湛はなぜストイックに不言の教えを実践し、真理を探究し続けているのか。その原点は母への思慕にあると思っている。ドラマ43話「重なり合う心」で明かされる彼の両親の過酷な境遇。幼心にも周囲が向ける母への敵対的なまなざしは辛かったろうし、母を愛する純粋な気持ちとのはざまで「ほんとう」を見極めたいという思いが、彼を不言の教えに導いたのではないか。
不言の教えは、ほか43章、前回の記事にもあげた56章にも出てくる。56章は藍湛のカギになると思うので再掲してみる。
言葉にできない世界を感知するための不言の教えから始まり、前回の名前の由来で見た4章「和光同塵」と同じ「和其光、同其塵、挫其鋭、解其紛」が続いている。この56章は藍湛の姿そのもの、といっていいのではないだろうか。
その前に置かれている「孔をふさぐ、門を閉じる」つまり感覚をふさぐ、という一連の句で思い出すのはドラマ第9話「惑わしの霧」だ。主人公二人が温晁の放ったフクロウに、幻影の霧の中で襲われる。このとき藍湛はすぐさま五感を閉じて攻撃に対応する。そして魏嬰にもその奥義を伝える。
不言の教えの深い修行が身についている藍湛のこの対応力。かっこいい。それまで考えたこともなかったらしい魏嬰が、すぐにこれを実践できてしまうのもスカッとする。そこは真の姿は聖人どうしの二人のこと、違う道筋でもそれぞれに修行を重ねているからこその阿吽の呼吸だ。
衣装の色 白と黒について 老子28章
ドラマで魏嬰と藍湛が着る衣装には強い印象を受ける。翻る衣の質感やラインの美しさもあるが、白と黒の色の鮮やかな対比が大きい。中国語ではこの対を黒白と呼ぶようで、日本語だと白黒とさかさま読みになるのがどうしてなのか気になるところ。
さて、この白と黒である。老子28章を読むと、白と黒は奥深い世界を象徴することが見えてくる。
全訳は長すぎ部分訳の切り取りはわかりにくいため、あえて読み下し文の抜粋にしてみた。保立先生のこの章のタイトルは「15講 女が男を知り、男が女を守り、子どもが生まれる」である。気になる方は先生の新書をじっくり読んでいただきたいところ。
読み下し文「その白を知り、その黒を守らば、天下の式となる」の「式」は易で使用される占いの道具の式盤のことだそうだ。
この白と黒は易でいう「乾・坤」「陰・陽」をあらわし、両面を兼ね備える、あるいは互いに補完して全き状態を作り出す世界。
易の「乾」と「坤」は三つの 爻と呼ばれる線の重なり具合でみると、同じ線が完全に重なるパターンになる。
「乾」「坤」はそれぞれ天と地を象徴し、男女、白黒の対にもなる。
全き世界の太極から二→四→八と分かれていく易。易経ネットのページ、太極から分化していく流れの簡単な図解を置いておく。
この流れを逆にたどれば、乾坤→陰陽→太極となる。
上の引用で太字にした最後の句「復帰於無極」の「無極」はこの太極=道よりさらに前の状態を示すという解釈もあるそうだ。
少しややこしくなってしまったけれど、つまり、陳情令で魏嬰と藍湛が着る黒と白は、その象徴世界が何重にもあって、しかもそれらは世界の根本につながる大本の組み合わせなのだ。
この白と黒の衣装は、第38話「束の間の安息」と39話「こぼれ落ちた飴」で唐突に挿入される「義城」のエピソードの主人公たちも着ている。暁星塵が白を、宋嵐と薛洋が黒を着ているのだが、これも同様に太極の象徴を表現していると思っている。ただ、こちらの三人の世界は調和を失ってしまう。これは次回(物語のテーマ編)で改めて考えてみたいと思う。
この白黒の二元の世界はBL小説として考えればまた意味深である。原作は読み込んでいないので、衣装の色が指定されているかはわからないが。
余談。
ちくま新書「現代語訳老子」「コラム5 易・陰陽道・神仙思想と日本の天皇」
老子と儒学によって認められた易が道教、陰陽道になり、日本の天皇が受けた影響が紹介されている。面白い。さすが日本史ご専門の著者のコラム。
主人公たちの運命の出所と思われる「老子」各章の紹介はここで終わりにして、物語のテーマ編をまた次回に。老子はとにかく面白い、と思うのですが、記事に書くのは、いやほんとに大仕事です。