新しい街での暮らし
7日目
今日は休みで、昼に中古の冷蔵庫と洗濯機、電子レンジが届いた。3万4000円新品みたいで買って良かったなって思った。
冷蔵庫は白色でよくある冷蔵庫、扉の上の部分が少しだけ薄ピンクに塗られていて、SHARPと書いてある。消毒をしたためか、開くとほんのり独特の薬っぽい匂いがする。
洗濯機もごくごく普通の白い洗濯機。少し傷があるがそれ以外はほとんど新品。アースを接続する場所がないので、そのままにしておきます。使えますが、気を付けてくださいとのこと。
何を気をつけるのか。業者の人が短く説明はしてくれたのだが、多分外国人で拙い日本語だったので意味はわからなかった。電子レンジの特徴は何もない。回るやつ、とだけ。
設置が終わると天気も良かったので外へ出た。買ったばかりの本を読むため隣町のショッピングモールにあるスターバックスへ歩いて向かった。
この辺りを昼に歩くのは初めて。マンションの近くには桜並木が広がっていて、気分が良かった。
少し歩いて暑くなってきたので上着を脱いだ。上着ポケットのものをズボンポケットに移すときにふとタバコが吸いたくなったので咥えてみたのだが、自分はもう社会人で、路上喫煙などを見られてややこしいことになっても嫌だなと思ってやめた。
ちょうどその時中古の骨董品屋らしきものが目に入ってきた。
その店には看板もなく狭くて暗かったが、奥に光が見えたので入ってみた。
通路には取り出せないほどぎゅうぎゅうに詰められた自転車が並んでいて、中に入ると古着やらおもちゃ、絵画や日本刀まで飾ってあった。奥で店主が犬と一緒に野球を見ていたので声をかけてみた。気さくなお爺さんという印象。海苔みたいに黒い髪、生え際の白髪が少し目立つ小柄なお爺さんである。
声をかけて早々、何が欲しいと聞かれたので、自転車と答えた。徒歩に不便さを感じていたから、前々から欲しかったけど、新品が高くて買えずにいたのである。
すぐに、ギアは?予算は?と聞かれた。ギアなし予算1万以内と答えると、僕の横を通り過ぎ通路のぎゅうぎゅうに敷き詰められた自転車の中から黒と白の自転車二台を持ってきてくれた。7800円、どっちにするか聞かれた。僕は少し悩んで、黒と答えた。すると、白の自転車をしまって黒の自転車を外に出した。乗ってこいとのこと。僕は骨董品屋の周りを一周してきた。買うか?と聞かれたのではい!と答えた。黒の自転車は中古には見えないほど綺麗だったし、何よりこの店が気に入ったからである。
この店の雑さ、お爺さんのテンポや雰囲気が関西っぽさを感じられて、上京してきた僕にとってすごく心地が良かった。防犯登録してないから、警察に止められたら僕に電話してきて!また書類見つかったら電話するね!とのこと。これもまたいいなぁ。僕は東京で新しく手に入れた黒の自転車にのって、ショッピングモールに向かった。
30日目
上京しても同じように図書館にいる。
地元の図書館とどこか似ている感じがしていて、落ち着く。
近くに大きな河川が流れていて、河川敷にはサッカーコートがあって、脇道に自転車を漕いでいる人がいて。ただ、今いる図書館は地元のよりは少し小さい。人もそんなに多くはなくて。
息抜きに川を見に行く。タバコの味はいつも変わらない。ただ少しだけ景色が違う。川にかかる橋は地元のそれよりははるかに大きくて遠くにあって、少し霧がかっているように見えるし、車はありの行列のようにずらっと並んでいる。少しだけ萎縮してしまうと言うか、自分がちっぽけに感じる。自分は巨大なシステムの中にいて、その一部だというか、なんとも言えない寂しさを感じる。
人は忘れる。忘れることは怖い。忘れたくない。なんで忘れたくないか。
今までの僕があって今の僕がある。その上での享楽的こだわり。だけど享楽的こだわりと記憶は違う。記憶は自分の本当の享楽を知るカギの一つでもある。無意識的ではあるが端的な反応は享楽的とは言わない。
君たちは何を失い、何を求めるのか。
問いたい。
実感とは何か。実感を持たない文化は継承できるのか。その必要があるのか。
僕が生きてきた期間。実感を持って生きた期間は文化。あらゆる記憶がモノに宿り、生きたものに共有される。
地元は僕の実感として存在している。だからこそそこに文化としての価値があると感じる。