「グリーンブック」の考察 ※映画の内容に触れています
ドンがバーで最後の演奏をしていたとき、映画の中で1番顔がイキイキしていて、とてもいい表情をしていた。
ピアノを弾くことを、誰かと演奏することを、誰かと共に何か楽しむ経験を、全てを彼は心から楽しんでいた。
この映画のメッセージはここにあると思う。
映画の途中で、
「黒人でも白人でもなく、男でもない私は何なんだ」
というセリフがあった。
映画全体を通してだが、特に中盤から後半にかけて、自分自身は何者なのか、アイデンティティに葛藤している様子が描かれている。
トニーがミラー越しに見る、いつも考え事をしているドンの表情や、多くを語らず自分の中で抱え込み、
どこかいつも孤独を感じている。常に品位を保ち、めったに感情が乱れることはなく、誰に対しても丁寧に平等に接する。
トニーと対照的で、いつも穏やかな表情で、言葉や態度や、自発的な発信は多くないながらも、葛藤に揺れ動く心情が、描写として随所に繊細に描かれている。
確かに彼の場合は複雑かもしれない。
でもこの映画は、黒人差別だけを題材にしているわけではない。
自分自身を形成する人種や国籍、それらを通じてアイデンティティを模索しながら自分の人生を形成していく
一人の人間として、トニーが、ドンが、出会いと関わりと経験を通じて気づきを得る物語だ。
この世界に生きる、一人ひとりが、誰しもが、
生きている上で一度はぶつかるであろう、自分自身のアイデンティティの問題。
自分は何者なのだろうか。
人種で、国籍で、言語で、障がいで、またはそれでなくても、曖昧で複雑な自分という存在に、常に向き合っている。
答えを見つけたくて、ヒントを得るためにがむしゃらにもがいて明確にさせようとすればするほど辛くなることもある。
物事は、0か100か、白か黒かはっきりさせた方が楽になる。
グレーゾーンで、正体がはっきりと掴めない、曖昧なものに向き合うときは、とても不安になる。
そして、そのようなものや存在に向き合うことは、とてもエネルギーを使い、そこに耐える我慢強さが求められる。
ドンも、自分のアイデンティティに葛藤していた、
「いわゆる」黒人として生きる方が、もっと気持ちが楽だったかもしれない。
悩まなくていいことに、悩まなくてよかったかもしれない。
男か女か、はっきりどちらかに属していれば、それ以上の葛藤はなかったかもしれない。
そして彼が生きている社会では、周りの人間は自分を「黒人」と分類するけれど、
ではいざそのコミュニティに入ると、別の存在として見られる。
果たして自分は何者なのか。
その答えが、彼の最後の演奏で分かった。
自分は他の誰でもなく、ただ自分であるということ。
人種が、国籍が、言語が、性別が、自分の中で、他人にとっての自分と一致していなくても
自分が存在していること、それだけは絶対だ。
そしてそれが全てだ。
バーで演奏している彼の姿、表情は、ただピアノの演奏を他の人と楽しむ一人の人だった。
暴力ではなく、音楽で人の心に触れ、音で人と繋がることで和解を実現させ差別をなくしたいという彼の想い、
そこから生まれる演奏、それが、彼自身だ。
黒人であること、
男性でもなく女性でもないこと、
ピアニストであること、
(スタインウェイ以外は弾かないこと。
↑これはあくまでトリオのコンサートでは、の話かもしれないが、最後に、バーにあるごく普通のピアノで弾いたことにも、旅を通じて生じた彼の心情の変化を表す意味があると思っている。)
そんなものをとっぱらって、ただ一人の人としてその場を心で感じて楽しんでいた。
自分自身が存在していること、それ以外は全て曖昧なものだと思う。
もちろん生まれてきた生物学上の性別はあるけれど、
生まれ育った国があり、母国語があり、名前もある。
でも絶対自分は〇〇だ、と断固として言えることは一つもない。
しかしそれは悪い意味ではなく
その曖昧さは、可能性を秘めている。という意味だ。
絶対〇〇、と断言する、区切ることで迷うことはないが、それ以外の可能性は切り捨てることになる。
逆に、やりたいことに突き進んで行きたいとき。
確実な確信を持てたとき。
これは胸を張って言える。自分自身の背中を押したいというときはもちろんそれでいいと思う。
でもそれを苦し紛れでやろうとしているなら、
グレーの状態が辛いから答えを見つけたい、ハッキリさせたいという思いからきているなら、
少し俯瞰して考えてみてほしい。
曖昧であるということは、選択肢が複数あるということ。
つまり別の可能性を大いに含んでいるということだ。
どんな自分にもなりうる可能性を秘めている。
線引きをとっぱらってみることで、物事の見方や捉え方はガラッと変わる。
できるできない
好き嫌い
やりたいやりたくない
私たちは生きる上で、そういう軸で物事を振り分ける。
明確なものはそれでいい、でもグレーゾーンがあるのであれば、そこに可能性が秘められていると思う。
できないと思っていたことが、もしかしたらできるのかもしれない。
得意じゃないけど、本当はやってみたいのかもしれない。
グレーゾーンに置いておくことで、何かのきっかけを得て花開くことがあるかもしれない。
ドンの場合がそれだ。
彼を取り巻くアイデンティティが曖昧であり、
しかしそれこそが、彼という人間を作り、その複雑性こそが、枠に分類できない曖昧さが、ドン・シャーリーという唯一無二の存在を作り出している。
彼は自分のアイデンティティを常に模索していて、トニーや、トリオの仲間、執事、差別した相手、お店の人、どんな相手とも常に真摯に向き合い、真っ当なコミュニケーションをとることを恐れず全力でぶつかっていた。
最後のシーンではトニーに誘われパーティーに顔を出すが、あれがもし南部に行く前だったら、パーティーに行かなかっただろうと思う。
南部でのツアーを通じて、トニーを通じて、その中で常に自分に向き合い続けたからこそ彼の中で何か殻が破れたのだと感じた。
結局自分は何者なのか、向き合い続けても、問い続けても、そこに答えはない。
しかしそれは、考えるのを諦めろという意味ではなく、
そんな曖昧な自分を、それでいい、それが自分だと受け入れられたとき、
1番自分らしく、今自分自身という存在を生きることができる。
南部への旅は、彼にとって自分探しのような旅だったと思う。
そこに答えはなくても、ツアーを終えて変わった彼の表情が全てを物語っている。