たもっちゃんのいた世界
たもっちゃん、と皆から呼ばれている豆腐屋さんがいた。いつも頭にタオルを巻いていた。
年老いたお母さんと2人、朝早くから豆腐を仕込む。真面目でまっすぐなたもっちゃんの豆腐はしっかりとした大豆の味がした。
私の祖母は豆乳を飲むので、毎朝、たもっちゃんの豆腐屋で豆乳を買っていた。たまに飲ませてもらうと、出来たての豆乳はほんのり甘くて濃くて、とてもおいしかった。
夕方になると、たもっちゃんは四輪自転車の後ろの大きな荷台に豆腐、油揚げ、おからなどを積んで、町内を廻る。
「アーッアッ!アーッアッ!」
たもっちゃんの大きな独特の掛け声で、皆、たもっちゃんが、家の近くに来たことを知る。
すると、あちこちから小鍋を持った人が出てきて、豆腐や油揚げを買う。
「豆腐一丁」「油揚げ1枚ちょうだい」
その日の夕飯の材料なので、そんなに多くは買わないけれど、たもっちゃんは笑顔を絶やさない。
「ばぁちゃんの具合はどう?」「まぁね。なかなかね」「ヨシ坊は受験だね」「まったく。塾でお金がかかってしょうがないわ」
近所の人たちは豆腐を買った後、井戸端会議に花を咲かせている。
どんな相手でも、どんな話でも、たもっちゃんはいつもニコニコ聞いている。たもっちゃんの笑顔は、なぜかホッと人を安心させた。
たまに子どもがお使いに来ると、にっこりとして買ったもの以上におまけしていた。
しばらくすると、また「アーッアッ!アーッアッ!」と叫びながら次の目的地へと自転車をこいで去っていく。
その辺で遊んでいた子どもたちは、たもっちゃんの真似をする。「アーッアッ!アーッアッ!」と、ちょっとふざけながら、たもっちゃんの自転車を追いかける。
たもっちゃんは決して怒らない。大きな声で「アーッアッ!アーッアッ!」と叫んでいる。たもっちゃんと子どもたちの、いつもの追いかけっこ。東京の下町の、夕焼けの空にこだまする「アーッアッ!アーッアッ!」
「アーッアッ!アーッアッ!」の掛け声以外に、誰もたもっちゃんの声を聞いたことがない。たもっちゃんが話せなかったのか、それとも話したくなかったのかは分からない。
けれど、誰もそんなこと気にしなかった。たもっちゃんの作る豆腐は美味しくて、たもっちゃんはいつもニコニコしていて、たもっちゃんの周りにはいつも人が自然に集まってきていた。
「アーッアッ!アーッアッ!」
今でも、夕焼け空を見上げると、たもっちゃんの掛け声が聞こえる時がある。
「アーッアッ!アーッアッ!」
心の中で、私も叫んでみる。祖母から分けてもらった、ほんのり甘くて濃い、できたての豆乳の味が蘇ってくる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?