37番 白露に風の吹きしく 文屋朝康
花山周子記
白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける
文屋朝康 〔所載歌集『後撰集』秋中(308)〕
まだまだ2023年の東京は暑いけれど、そんな今読むと今日の一首はまるで秋を先取りしてくれているようで、一層いいなあと思う。
秋の草の白露に風が吹く。すると露が光りながら散っていく。
それを糸を通していない玉が飛び散る様子に見立てている。
露を玉に見立てるのは当時流行の発想であった。
35番⑤で、36番清原深養父の歌で『古今集』の歌は最後になると書いたが、実はこの37番の歌は収録歌集こそ『後撰集』ではあるが、作者文屋朝康(経歴未詳)は、貫之と同時代、古今集の頃の人である。
この歌の『後撰集』の詞書には『延喜《えんぎ》の|御時歌召しければ」(延喜は901ー921年)とあるが、これは間違いのようで、実際は『寛平御時后宮歌合』で詠まれたものとのこと。
同じ歌合には、貫之の、
秋の野の草は糸とは見えなくに置く白露の玉とつらなる 紀貫之
という歌もあり、同じ題によって詠まれたものではないかと思われる。
『寛平御時后宮歌合』は歌合の最初期のもので、寛平4(892)年の秋から冬、あるいは翌5年秋頃に行われたと推定される。貫之が22歳くらいの頃で、貫之の最初期の作品ということになる。
初期作品だからなのかどうか、貫之の歌は、朝康の歌と比べると、作りが硬い。「秋の野の草は糸とは見えなくに」など、説明的でぶつぶつと切れてしまっていて、まるで白露の美しさが見えてこない。それに比べて、
白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける
この歌は本当に一筋に吹く風のなかに玉が散ってゆく。
前半は「しらつゆに」「ふきしく」とさ行音が印象的に秋の白い風を感じさせる。
そして、後半では、「つらぬきとめぬたまぞちりける」と、丸みのある音がつるつると連なっている。
口語訳では、「つらぬきとめぬ」のところが、
「ひもで貫きとめていない」とか、あるいは「緒を通していない」、「糸を通していない」と、「~ない」と表現されることになる。
けれども、それではこの歌の感じはどうしても伝わらない。貫之の歌の「~糸とは見えなくに」とほとんど同じになってしまう。
「ぬ」は否定であるから仕方はないのだけども、意味としては途切れながらもここには音感としては途切れのない、玉の散る様子が描き出されているのだ。文語だからこそ生まれた響きが寧ろ歌を貫いているのである。
ところで前回今橋さんが書いている通り、これまで朝康の父、康秀の歌とされてきた、
22番
吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ 文屋康秀
この歌は、朝康が作者ではないかというのが近年有力な説になっている。
どうなんだろう。22番の歌はシンプルな存在感がある。一方白露の歌はもう少し繊細で細身な感じがするが、題材の違いにもよるだろうか。
同じ作者と言われてみれば、確かにどちらも頓智や見立ての歌でありながら、助詞の繋ぎに流れがあり韻律のほうで読ませていく。なにより、
吹くからに
白露に風の吹きしく
と一気に歌に風を入れるスタートの切り方が似ている。
このスタートの切り方が本当によくて、内容以上に調べのなかに風が通されていくのだ。
ちなみに朝康は他にも露の歌をいくつか詠んでいる。
秋の野におく白露は玉なれや貫きかくる蜘蛛の糸すぢ 文屋朝康 『古今集』
こちらは『古今集』に収録されている歌(『古今集』に先の貫之の歌は取られていない)。『是貞親王家歌合』に出されたもので、この歌合も『寛平御時后宮歌合』と同時期に前後して行われた。こちらのほうが見立ての印象が強い。
こんなふうに読み比べていると、つくづく、小倉百人一首の定家の選歌に感心してしまう。
翻案の歌が毎回本当に作れないので、今回もなしにします。