41番② 恋すてふわが名はまだき 壬生忠見
花山周子記
恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか 壬生忠見 〔所載歌集『拾遺集』恋一(622)〕
40番 しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで 平兼盛
41番 恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか 壬生忠見
この二首は天徳内裏歌合で平兼盛の勝利となったけれど、その後も長くどちらの歌がいいか議論されてきたという。好みにもよるだろうし、負けた方の忠見の歌を擁護する声も根強いようだ。
でも、わたしはそれより先に、
39番 浅茅生の小野の篠原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき 参議等
とこの二首の違いがおもしろいなあと思うのだ。この参議等の歌も「忍ぶ恋」の歌であり、『後撰集』恋一にある。
この歌の見所は、忍ぶ恋の心が自分の胸にあまってしまうことの苦しい独白にある。
一方で、歌合の二首に共通する特徴は、
しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで
恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか
と、いずれも、自分一人の心のうちにあったはずのものが他人に知られてしまったことが問題にされている。つまり、「忍ぶ恋」であったはずのものがそうでなくなってしまったというかたちで「忍ぶ恋」が主題に置かれている。
これは、この二首がお題に答えるという歌合のシステムに向き合った結果でもあるだろうし、もうひとつ、この二首が出されたのが歌合であったという場の問題でもあるのではないか。和歌においては、「誰/どこ」に向けてその歌が詠まれているか、というのは非常に重要な問題のような気が私はしているのだ。これら二首は紛れもなく歌合の場に対して詠まれている。歌合に居合わせる人々に「あなたたちにバレてしまいましたよ」と呼びかけるような一種のパフォーマンスになっているのだ。
その意味で、参議等の歌とは根本的に歌のテイストが異なっている。ちなみに等の歌には「人につかはしける」という詞書があり、独白のかたちをとりながら唯一一人の相手であるところの思い人に宛てられた歌である。
ところで、「忍ぶ恋」というのは今で言うところの片思いだろう。片思いをしていて次第に堪えられなくなってくる心のうちは、私には等の歌が一番リアルに感じられるのだが、では、歌合の二首のようにそれが他人にバレてしまった場合の心情を考えてみると、兼盛の歌は、
しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで
「しのぶれど色に出でにけり」と、堂々とした初句が置かれ、その内容も「片思いなのに顔に出ちゃってたみたい。人に「恋をしてるの」と聞かれてしまうほどに」という言いざまはどこか落ち着きすぎている。パフォーマンスとしての出来栄えがこの歌の全てなのだ。
一方、忠見の歌は、
恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか
バレてしまったことのショックと戸惑いがじわじわと伝わってくるようだ。「恋すてふ」とはじまる初句には、「あいつ人に恋してるんだって」と言われることの恥ずかしさがうわずった声で置かれ、「わがなはまだき」のア行音の連なりはアバババ・・・と泡噴くようなショックの度合いを感じさせる。そして、「人知れずこそ思ひそめしか」は、嘆きの声である。ほとんど少年の初恋のようなシャイな悲嘆である。
なんだか、本当にかわいそうになってしまう。大人たちに、あいつ恋してるよ、とひやかされた少年の心。
忠見の歌が歌合という舞台で目上の人たちにとやかく言われている場面と、この歌の内容はどこか似通う。そういうこの歌が負けてしまったことがなんだか、本当に切なくなるのだ。
※花山は今月引越しのためしばらく休載するかもしれません。
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