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41番① 恋すてふわが名はまだき
花山周子記
恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか 壬生忠見〔所載歌集『拾遺集』恋一(622)〕
歌意
恋しているという私の噂が早くもたってしまったのだった。誰にも知られないように、心ひそかに思いはじめていたのに。
今日の一首は、
40番
しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで 平兼盛
と並び「天暦御時歌合」の折りに「忍ぶ恋」のお題で出されたことで知られる。
「歌合」というのはこれまでにも少し触れて来たけれど、左右に別れてお題の歌を出し合いその優劣を競うもので、古今集の時代の少し前、紀貫之がまだ青年の頃に初めて行われた。有名な歌合はいくつもあるが、中でもこの「天暦御時歌合」は一般には「天徳内裏歌合」とも呼ばれ、以降の歌合の模範とされたという。
小林恭二による『短歌パラダイス』(岩波新書・1997年)で歌合を知った方も多いと思うが、現代でも短歌甲子園など歌合はいろいろなかたちで模倣され短歌イベントの余興として歌人たちの間で楽しまれている。けれど平安時代の歌合はただの遊戯ではなかった。天徳内裏歌合の村上天皇のように当代の天皇が主催する場合も多く貴族間での盛大な晴れの舞台となっていたのである。殊に歌人たちは貴族とはいえそのほとんどは下級貴族であったから、歌合にかける思いは並大抵のものではなかったようで、たとえばこの平兼盛と壬生忠見の勝負は平兼盛の勝利となったのだが、そこから生まれた逸話には次のようなものがある。
忠見心うく覚えて、心ふさがりて、不食の病付てけり。たのみなきよし聞きて、兼盛訪ひければ、別の病にあらず。御歌合の時、名歌よみ出して覚侍しに、殿の物や思ふと人のとふまでに、あわと思ひて、あさましく覚えしより、むねふさがりて、かく重り侍りぬと、つひに身まかりけり。
―(歌合に負けたことで)忠見は心がふさがってしまい、今でいう摂食障害になってしまった。回復の見込みがないことを聞いて兼盛が訪ねていくと、忠見は「特別な病ではないのだ。歌合のとき自分は名歌を詠めたと思っていたが、あなたの「ものや思ふと人の問ふまで」にうわあと思って、それ以来胸がふさがってしまってこのように重い病になってしまった」と言って、ついに身まかってしまった―という内容。
この『沙石集』は鎌倉時代に書かれたもので、実際のところは、忠見がもっと後年に詠んだ歌も残っていることから作り話であろうとされているが、後々の時代までこの歌合が語り継がれていることの一つの証左であるだろう。この他にも、歌合に関してはその勝敗が生死に関わるような逸話がいくつも残されている。
天徳内裏歌合の話に戻れば、この歌合は詳細な記録が残されていて、かなり正確にその場を再現することができる。
歌合は午後四時頃からはじまった。全部で二十番で、この二者の歌は最終番で出された。二つの歌が読みあげられると場内は騒然としたという。どちらも素晴らしい歌だったのだ。判者が困っていると、簾の中から天皇が「しのぶれど」と口ずさむのが聞こえた。
帝のご内意では、双方の歌を口ずさんで、ゆっくり優劣を考えられるおつもりだったかもしれぬが
と田辺聖子は言っている。そうかもしれないと私も思うが、とにかくこれで勝敗が決められてしまった。
ちなみに歌の作者たちは歌合中は別室に控えさせられているので、その場には居合わせない。あとからそのときの様子をいろいろ聞かされたかもしれないが、当座は勝敗のみが伝えられることになる。
その頃の忠見は摂津大目(摂津:今の大阪府北中部から兵庫県南東部)で、この歌合には任地から「田舎の装束のままにて、柿の小袴衣(こばかぎ)を今に持ちて肩に懸(か)く」(『袋草紙』)ような有様で馳せ参じたことも思い合わせれば、なんだか切なくなる。
ちなみに、忠見は、51番、
有明のつれなく見えし別れよりあかつきばかり憂きものはなし
の作者で『古今集』撰者の一人、壬生忠岑の息子である。忠岑も貧しかったが息子も貧しかった。
(つづく)