23番(花山版④)月みればちぢにものこそ 大江千里
花山周子記
月みればちぢにものこそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど 大江千里 〔所載歌集『古今集』秋上(193)〕
月みればちぢにものこそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど
前回、千里はこの歌で、白居易の漢詩「燕子楼中霜月夜 秋来只為一人長」の「秋の月夜のさびしさ」をトレースし、さらに漢詩で重要になる対句表現を取り入れた上で、それを和歌の文脈に砕いてみせたと書いた。
漢詩では対句表現が重要になる。たとえば、
なども、対句のかたちを取っている。あるいは、漢詩ではないけれども、
なども、漢詩の対句表現が踏襲されている。
「燕子楼中」の詩自体は対句ではないけれど、千里は漢学者として歌作をするにあたって、漢詩の基礎的な技術を取り入れてみせているのだ。つまり、この歌での「わが身一つ」は「ちぢに(千々に)」と照応させるために置かれている。
このように、全体としても、上下句で照応するところがある。
さらに、典拠にあった簡潔な韻文を、「こそ~けれ」の係り結びや「あらねど」というような反語的表現を組み込むことで、和歌的な文脈として生成し直している。また、夫に先立たれた女性を主人公に置いた典拠に対しては「われ」を置き直すことで、歌における普遍化が成されている。いわば、ここにこそ千里の技の見せどころがあった。
すると、①回目で紹介した子規の、
は、一見すると漢詩に素養のない人の無粋な批判にも見える。ところが、当の子規は漢詩を理解しないどころか、幼少期より親しみ、十一歳にして自身でもつくりはじめ添削の手ほどきを受けているほどで、さらに、自身もまた杜甫(712‐770年)の漢詩を典拠とした短歌連作(「杜甫石壕吏」明治三十一年作)を作っている。その素養はかなりに高いものだった。子規の原点は実に漢詩なのである。そういう子規がなぜ、こんな態度を取っているか。子規は「うたよみに与ふる書」でこんなことも言っている。「歌を一番善いと申すは」というのは当時主流であった旧派和歌を相手どっている。
後半の調べの話は最近の話題にも通じそうなのでだいぶ長めに引用したが、ここで読んで欲しいのは前半部分。俳句には俳句の、漢詩には漢詩の、西洋の詩には西洋の詩の長所があるという指摘だ。当たり前といえば当たり前なんだけど、一つのジャンルについて語るときには案外にこの視座を持ち得ないところがある。明治という時代にあって子規が見渡そうとしていたスケールを思うのだ。そして、殊に俳句と漢詩については造詣の深かった子規だからこそ、そのそれぞれの特長がよく見えており、そのような場所から、和歌には和歌の長所があることを言挙げしているのが「歌よみに与ふる書」なのである。そういう子規の目から見れば、千里のこの歌こそが無粋ということであったのかもしれない。
つづく