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神頼みだけではどうにもならないけど、生きた人間だけが世界を動かしているわけでもないと思う


思い出話を聞いてもらったら…

先日、ある宗教の教師をやっている高校の同級生Tくんと、彼が働く教会について書いた。
今日は、この記事の続きです。

上の記事に書いたとおり、Tくんから、彼が教会長を務める〇〇教K教会の70周年記念祭のことを聞いた私は、仕事の調整がつくならぜひ参加したいと思った。
というのが、K教会の先代教会長で、6年ほど前に亡くなられたN先生には、忘れられない恩があった。N先生の娘さんがいらっしゃるというので、どうしても娘さんにお会いしたいと思ったのだ。
だが、その前日と翌日に外せない仕事が入り、断念せざるを得なくなり、TくんにLINEを送った。

「記念祭の前日と翌日に仕事が入って、行けなくなっちゃった」
Tくん「そうですか、残念ですが、またタイミングの合うときにぜひ」
「昨日、N先生のことを思い出して、泣いてたんですよね。だから、娘さんにお会いしたかったのですが…」
Tくん「その話、娘さんに話してもいいですか?喜ばれると思うので」
「もちろん!でも、ただ思い出して泣いたと言われても困ると思うので、夜にまた連絡していいですか?N先生との思い出話を送るので、その話をお伝えください」

仕事の休憩中だったので、その場ではそこまでにしておいて、夜に長めのLINEを送った。

私が高校1年の頃、母親が亡くなったのだけど、ずいぶん会っていなかったN先生が四十九日に来てくださったんです。そのとき、私は先生のお顔を見た瞬間、涙が止まらなくなりました。
昨日はそのことを思い出して泣いていました。母親が亡くなった悲しみを思い出したんじゃなくて、N先生の温かさを思い出して泣いていたんです。
N先生にはそれ以降お会いできませんでしたが、娘さんにはお会いできそうで、いまとてもうれしく思っています。

私からTくんへのLINE

このLINEを送ったあと、私の気持ちはすーっと軽くなった。
このところ、バタバタしているせいか落ち着かない気分が続いていて、少し気分が落ちることもあった。だが、TくんにLINEを送ったあとに心の靄が消えたような気がした。
不思議だった。


「N先生が働いてくださっている」と言うTくん

翌朝、TくんからLINEが来ていた。早朝から掃除をし、祈祷している彼はとても早起きである。

N先生とは生前お会いしたことがなかったのですが、温かい方だったのですね。

Tくんから私へのLINE

N先生は6年前に亡くなったが、その3~4年前には施設入所のために教会長を辞めていた。それ以降は他の教会の教会長が兼務のような形でサポートし、N先生が亡くなった翌年にTくんが教会長になった。TくんはよくN先生のお墓参りをしているが、生前に会ったことはなかったのだ。
TくんのLINEは続いていた。

今回のやりとりから、N先生や当時のK教会の方々の温かさを感じることができ、じーんとしております。
70周年記念祭の準備が佳境になっているこのタイミングで、このやりとりですよ。
N先生が働いてくださっているように思うのです。とてもありがたいです。

Tくんから私へのLINE

6年前に亡くなったN先生が働いてくださっている。不思議な言葉ではあるが、私は何となくわかる気がした。
Tくんに返信した。

おはようございます。
昨日、TくんにN先生の思い出をLINEで聞いてもらったら心が軽くなりました。このところ悶々していたのに、今朝はとてもすっきりしています。
私も数日前にたまたまHさん(同級生)と話していたらTくんの話が出て、連絡してみようと思ったんです。
それが70周年記念祭の直前だったなんて、N先生が働いてくださっているんでしょうね。

私からTくんへのLINE

エンジェルナンバーとかいちいち身の回りのモノや出来事に意味付けするのは好きではないが、今回、70周年記念祭という大きな節目のときにTくんに連絡がとりたくなったこと、N先生の思い出を聞いてほしくなったことは、偶然やたまたまではない気がする。
Tくんとは同窓会で会うくらいで、個人的に頻繁に連絡をとるほどの仲でもない。年に1回、あけおめLINEを交換するかどうか、くらいである。
Facebookで結婚するという投稿を見たのも1ヵ月ほど前だが、今度会ったときに「おめでとう」と言えばいいかと思っていた。
いつかはK教会に行きたいし、N先生の話もしたいけど、それも急ぐことではないかなと思っていた。

それなのに、数日前に急に連絡をとりたくなったのは、Tくんが言うように、N先生が働いてくださったのかもしれない。

勝手な想像をしてTくんには申し訳ないが、彼は70周年記念祭の準備や記念誌の作成にあたり、N先生や昔のK教会のことを知らないことで不安を感じたのではないだろうか?
娘さんや関係者の方々から聞くことはあっても、彼自身が知っているのは最近のK教会だけである。長い歴史のほんの一部しか知らない。記念祭の講話で何を話そうか悩んだりしたのではないだろうか?
私が彼の立場だったらとても悩む。

N先生がTくんのことや、70周年記念祭のことを気にしていないはずがない。
教会関係者ではない、同級生の私が知っているN先生やK教会のことをTくんに話せば、Tくんの引き出しも増えるかもしれないし、記念祭に向けてのモチベーションも上がるかもしれない。
また、最近悶々としている私にとっては、過去を思い出して涙を流し、そのことを他人に話せば、心が軽くなるかもしれない。
Tくんと私を勇気づけ、元気づけるために、N先生が背中を押してくれたのだと思った。


神頼みだけではどうにもならないけど…

神様に祈るだけでどうにかなるとは思わないし、たまたまゾロ目を見たからうまくいくとか、そういう他力本願な考え方は好きではない。自分が何もしなくても神様が導いてくれるなんて甘いことは考えたくない。

だけど、すべてを人間が動かしているというわけでもない、と思う。
なぜか急に連絡がとりたくなった、急にどこかに行きたくなった。そういうときは、神様や、亡くなった方々が私たちの背中を押してくれているのかもしれない。
何事もそうだが、物事にはすんなり進むことと、スムーズに進まないことがある。たいていは主体となる人間の思考や行動に問題があるのだが、それだけで片付けられることばかりではない。
これは神様が背中を押してくれたり、ストップをかけたりしているのかもしれない、と思う。

神様の力が働くとはいえ、判断し、行動するのは人間である。
神様が背中を押してくれても、自分で動かなければどうにもならない。誰かを思い出したら連絡をとる。そのときは愚痴やマイナスなことを話すのではなく、相手を思いやり、感謝の気持ちを口にする。
今回のTくんとのやりとりを読み返すと、お互いに「ありがとう」「ありがたい」「感謝している」「うれしい」「楽しみ」「大丈夫」「安心」という言葉をたくさん使っていた。私が抱えていた心の靄が晴れたのは、このような言葉を掛け合ったからだと思う。
なかなか聖人にはなれないし、noteなどでは愚痴ばかり書いているし(笑)そういう場所がなくてはやってはいけない。だが、他者と直接話すときは、こういう感謝の言葉を選んで話したいと思う。

この世にいる人だけでなく、あの世にいる方々も見守っていてくれることを忘れてはならないと感じる出来事だった。


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