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『南へ』

 一年続けてある程度お金が貯まったら海外に写真を撮りに行こうと思って始めたアシスタントの仕事も気がつけば4年近く経っていた。後輩も育ってくれて、しかも僕なんかより仕事もできてスタッフから頼りにされていた。これで安心して海外に行ける!で、どこへ行こう。

ふと学生時代にシネヴィバン六本木で観たビクトル・エリセ監督の『エル・スール』のロケ地に行ってみたくなった。聖地巡礼というやつだ。独立のお祝い金とハッセルを売ったお金でスペイン行きの一番安い航空券を買った。アエロフロート機は何度乗っても黒パンの匂いがすると思うのは自分だけなのだろうか。

僕は英語が喋れない。ましてスペイン語なんてアミーゴ!くらいしか知らない。今思えば無謀で無計画な旅だった。しかも聖地巡礼のはずがロケ地が正確にはわからない。今みたいにネットが普及しているわけでもなくとにかく情報が足りない。手元にあるのは映画『エル・スール』のパンフレットと地球の歩き方だけだった。

人間、追い詰められると意外な能力が開花するものだ。だってカタコトでもスペイン語を喋らないと 動けない 食べれない 泊まれない。地球の歩き方の巻末に載っていたスペイン語会話の例文を見て必死にしゃべった。仲良くなったスペイン人にパンフレットを見せて『これどこだと思う?』と尋ねると皆口を揃えて『北の方だね、バスク地方だと思うよ』

それまで僕はスペインが複数の言語と複数の民族により構成されているとは知らなかった。カスティーリャ、ガリシア、カタルーニャ、そしてバスク。まずマドリッドから北のバスク地方を目指し、そこから反時計回りに南下してアンダルシアに向かうことにした。長距離バスに揺られながら見たスペイン北部の風景はどこまでも荒涼な乾いた大地だった。時折葡萄畑を見かける程度で『エル・スール』で父と娘が井戸を掘り当てるシーンと重なって見えたが、なんだか知っているスペインと随分印象が違う。スペインと言えば陽気でフラメンコ踊ったりしてるイメージだけどここ北部はどこか暗く静かで神秘的だ。バスの運転手も懐中時計をじっと見つめて時間通りに発車したりしていた。 ビクトル・エリセ監督の世界観はやはりスペイン北部の光と気候が関係していたのだろうと勝手に想像した。そして『エル・スール』の主人公と同じく南を目指した。ガリシア地方から南下し始める頃には僕のスペイン語もだいぶ上達して地球の歩き方無しで会話できるようになっていた。さらに南下して途中ポルトガルに寄ったりしつつアンダルシア地方に入った瞬間あきらかに何かが違うことに気がついた。光が違う、気候も言葉も違う。基本的にはスペイン語(ロマンス語)だが発音が可愛らしい!人々が陽気だ。今調べたらイベリア半島って南北800km ほどあるらしい。青森と東京くらい離れていればそりゃ光も人も違うよね。

そういえばグラナダという小さな街で不思議な経験をした。安いHostal(民宿)を探していた時のことだ。スペイン語で懸命に『今晩泊まることができる部屋空いてますか?僕は日本から来た写真学校の学生なんです』当時の民宿は学割があるところが多かった。それで学生のふりをしていたのだ。出てきて応対してくれた小柄なスペイン人のおばあさんが『あら、学生さんなの?じゃあ、安くしてあげる』と日本語で言ったのだ。驚きのあまりその後の記憶が曖昧になっているがカタコトの日本語ではなく流暢な日本語だった。

聖地巡礼をするつもりが映画の最後にちらっと出てくるアンダルシアがすっかり気に入ってしまったのは誤算だったが『エル・スール』と出会っていなければスペイン語も喋れないのにスペイン一周の旅をすることもなかっただろう。その後、バルセロナ、南仏を経由してイタリアのナポリまで旅をしたところで資金が尽きた。

高校1年生の夏休みに北海道から東京まで自転車で旅したことがある。
ひたすら南を目指してペダルを漕いだ。なぜそんなバカな事をしたのか覚えていない。

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