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ちょこっとOutput/「『これくらいできないと困るのはきみだよ?」勅使川原真衣編著(東洋館出版社/2024)その⑥
対談2 学校でケアし、ケアされるということ 竹端寛×勅使川原真衣
「べき」で迫れる限界がありますよね。
管理的なやり方にも効果はあるだろう。でも、それだけではない領域が存在する。そう、本当に自分が腹落ちできるだろうか。
きっとそれには体験しかないのだと思う。
「楽しい」でどこまでやれるのか。「楽しい」を原動力にした取り組みでどこまで行けるのか。
その景色を見ることで、きっと見えるものがあるんだと思う。
しかしそれには「体験」が必要だ。
「混ざる」「楽しい」「ワクワク」でどこまで行けるか、という体験というか、実験というか。
それはきっと、自分で生み出してみるしかないんだろう。
それがもしかしたら、自分にとってもヒントになっているのかもしれない。
本当は語り直すことによって、肩の荷を下ろすことができるのですよね。勅使河原さんみたいな外部者が入ることによって、何かを語り直したり、思い出したりする。硬直したストーリーをひらいていくために。
学校の先生にはそういう機会が決定的に欠けているかもしれない。本来、学校の先生になりたいと思ったときに、自分なりの動機、自分なりの物語があったはず。でも、その物語と、今、学校で汲々と管理統制をしなければいけない立場の自分の物語が接続しているのかといったら、していない。実存がつながっていないのよね。
たぶん大事なポイントは、その人の能力を高めることよりも、現実とその人の実存とをつなぎ直すことのほうです。それはたぶん組織開発も一緒でしょう。
「わたし」(ここで言う「実存」)と「しごと」をつなぐこと。
実存の核、つまり自分は何者で、どんなふうに生きてきて、今どうしたいのかみたいな核と、「できること、したいこと、世間から求められていること」とをつなげないと意味がないんですよ。実存的問いとも言える。
結局は教師もまた、社会の中のロールに巻き込まれて「わたし」とのつながりを失ってしまっているんだろう。
本当なら、そこに使命感のようなものがあって、それにつながれたらどんなに良いことだろうと思う。
will-can-mustフレームワークの中心にあるようなものに、どのようにつながっていくのか。
それは「わたし」(自己)を見つめることでもあると同時に、他者(他人、社会)の中とのつながりの中で見出されていくのかもしれない。
糸は端から絡まっているのだ、と。
その過程の中で「混ざる」ことをしようとすると、異質な人との関わりが必要となってくる。そもそも同質性の高い集団で集まることが可能な現代だ。好きなコミュニティに属し、同質性の高い組織の中で仕事をしたり生活をしたりすることができる。
でも、きっとそこにも糸の絡まりがあるのかもしれない。
うーん、逆に同質の心地よさに問題はないのか、気づいてもらうとかですね。
でも、あくまで同質なふりなんですよね。
同質であるからこそ、見落としてしまうことがあるという。
個人的には、それが何かは実はよくわからない。
結局自分もまた、同質である人とコミュニケーションをとろうとしてしまう一人だからかもしれない。
「同質性によって組織生産性が6か月後に何パーセント下がる」みたいなデータもそうかもしれないけれど、結局は「同質の心地よさで享受されるものと、失うものはなんだろう」と考えることが必要なのだろうと思う。これも、対話の機会が欲しいなあ。学級における規則の自由度を上げると、何が得られて、何を失うんだろう、みたいな。
学級も職員室もまた、対話の必要性にあふれている。