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ストーム 8

札幌で過ごした大学生活の4年間は、まるでストーム(嵐)のようでした。
寮生活での出来事を中心にサークル活動に没頭した熱くて若かったあの頃を振り返っています。
今日で8話目。サークル活動での思い出をいくつか紹介します。


 私の1つ上の先輩にかなりの理論派の方がいた。
 入会した時は、この方がサークルの代表者であり、セツルメントのイロハを教示していただいた。学生時代に大きな影響を受けた人物の1人である。
 とにかく、すごい読書量の方で、むずかしい言葉を連発しながらいろいろなテーマについて論破していかれる姿はカッコよく、自分もあんな風になれるのかなあと憧れたものだ。この方は、後に道内で小学校の教壇にたたれるが、数々の実践を書籍に残された。大学で講義を持っておられたという話も耳にした。

 サークルでの活動を事細かに書くと、かなりの量になる。私に高い志と体力、気力があればそれだけで一冊の本になりそうなくらいだ。読みたいと思ってくれるあ方はほとんどいないだろうが・・・。
 ここでは、特に忘れ難いものだけに絞って書いてみる。

 サークルでは、年に一度の「総会」なるものがあった。
 1年間の活動の総括と来年度の活動方針について承認、決定する場である。成立条件には厳しい規約があった。
 その会に向けて「総括案」と「方針案」を冊子にする。これを4つのパートの責任者とサークルの代表者からなる書記局で作成するのだ。
 この作業がとんでもない「重労働」というかもはやサバイバルレースとも言えるほど過酷なものだった。
 私は、2年生進級時にサークル代表になった。自分には無理と思い、泣いて固辞したこともあった。しかし、周りを見回した時に自分しかできる条件のあるものがいなかったことも事実だったので逃げることは許されなかったのだ。
 このサークルは、年度初めの4月には30人以上の部員が入会するが、年度末に「生き残った」者は、片手にも満たなかった。私は、その片手の中の1人だったのだ。
 サークル代表として初めての総会を迎えた。
 準備は、1ヶ月以上前から取り掛かる。
 
 印刷物は「ガリ版」と言われる方式で作成した。
 昭和30年代までの生まれの方なら「卒業文集」などでお世話になったことがあると思われる。
 コピーもファックスもあるにはあったが、学生の分際では使えなかった。
 なんか、青白い特別な紙にゆっくり転写するような「コピー機」を使った覚えがある。出来上がりはしっとり湿っていたような記憶も蘇る。

 ロウ原紙というテカテカの用紙の下にやすりのような鉄板を引いて先の尖った鉄筆でガリガリ書いていくのである。ロウが削られたところにインクが入って印刷される方式である。
 印刷機にセットして一枚一枚ローラーで刷っていくのである。小学校の時にやった版画のイメージだ。

 総会の資料は膨大だった。ロウ原紙で50枚はあっただろう。それを1枚1枚何10部も刷っていくのである。今から思えばよくやったのものだ。ちなみにこのガリ版は私が教員になった頃にはボールペン原紙というもっと手軽なものとして残っていた。やがて普通の紙に書いたものをFAX原紙なるものに写し変えて輪転機という印刷機で印刷していくようになる。さらに、リソグラフという大発明があり、一瞬で原稿が読みとられるシステムになり、印刷時間が大幅に短縮されることになるのである。
 今では、ボタン一つで印刷できるのだからいい時代になったものだ。こうしてみると私は、印刷という面でも「進化の歴史」を身を持って経験してきたことに気づく。

 徹夜に近い作業を何度か繰り返して総会の資料が完成する。
 この資料を丸一日かけて「討議」するのである。最後に「採択」という場があるのだが、大抵先輩のお偉い方から修正が入り、採択が見送られることになる。執行部は、その修正を受け入れもう一度討議資料を作り直すことになるのである。てなことで総会がすんなり成立することはまずなかった。随分たいそうなイベントである。これも、この時代の学生のなせる技としか言いようがない。総会をすんなり通すことが罪のような雰囲気さえ感じた。
 身も心も消耗し切って総会当日を迎えることになる。風呂にも入れず、さぞかし異臭も漂っていただろう。肝心の報告の最中に意識が飛んでしまいそうなこともあった。当時付き合っていた女の子の名前をなんの脈絡もなく「報告」してしまい、失笑を買ったこともあった。

 総会の資料作りで泊まり込みで作業をしている時だった。寮の私の部屋で書記局のメンバーが集結していた。
 私は、深夜にふらふらになりながら階下のトイレに行った。用を足して階段を登り切った時、強烈な眩暈がしてそのまま階段を転げ落ちたことがあった。後にも先にもにもここまで自分を追い詰めた作業の経験はない。メンバーのみんなは、私の体調を一番に考えてくれて後の作業を私ぬきてやり遂げてくれた。まあ、サークルの責任者としては情けない思い出だが、「協力」や「支え合う」ということを綺麗事でなく、体感できた出来事だったように思う。
 そして、この時の総会は、先輩方から「今回は、通したろか」と成立させることができたのである。後にも先にも総会が承認されて「通った」経験はこの時だけだったと記憶している。

 学生セツルメントには年に2度大きな大会があった。
 1つは北海道学生セツルメント連合大会、もう一つはそれの全国版である。
 この大会に向けて、実践報告書なるレポート集を作成した。これは、印刷物として総会以上のボリュームのあるものになった。電話帳とまではいかないが、3cmくらいの厚みになるレポート集だ。それも、先ほど紹介した印刷方法で作成するのである。部数が半端なかった。全国大会になると100部以上作成しなければならなかったからだ。右手は、腱鞘炎になりそうだった。他のメンバーで本当に炎症を起こしたものがいた。
 当時、学生セツルメント連合は全国組織としても活発に活動していた。
 学生には、長い春休みがある。毎年3月の年度末に、東京や京都、大阪で大会が行われた。3日くらいあったと思う。記念公演や分科会があり、全国のサークルから持ち寄られたレポートを参加者で討論し合う。
 その中で、注目を評価を得た実践は、後日冊子に掲載された。私たちは、この冊子に掲載されることをとても名誉なこととして受け止めて、「載せてもらえる」ことがいつしか目標になっていたように思う。光栄なことに私たちの実践は何度もこの栄誉を受けることになった。

 
 やはり、書き出すと長くなる。
 限りなく「自己満足」の世界であることお許しいただいて今日の記事とする。


ストーム 9へ続く

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