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ストーム14

札幌で過ごした大学生活の4年間は、まるでストーム(嵐)のようでした。
寮生活での出来事を中心にサークル活動に没頭した熱くて若かったあの頃を振り返っています。


 寮だけでなく、学内に大きなストームを起こした「腸チフス事件」も収まり、大学は長い春休みに入っていた。

 その頃、私が所属していたセツルメントというサークルは、危機的な状況に陥っていた。
 学年初めには、40名近い新入生が入会していたのにも関わらす、学年末になって生き残ったのは、3人だけだったのだ。
 元々、このサークルの運営は主に1年生、2年生で回していた。
 3年生になるとそれぞれが各専門の研究室に所属し、学業に専念していくのが常だったからだ。もちろん、大きな行事には参加してくれていたが、日常の活動は1、2年生で行なっていた。そして、その中心となる書記局と呼ばれる執行部には、1年生の後半からメンバーに名を連ねることが多かった。
 生き残ったメンバーは3人と言ったが、その内の1人は、よせばいいのにバレーボール部にも所属しており、執行部に入ることは叶わない。となると、残るのは私ともう一人だけである。そんな中、次の書記局のメンバーさえ揃わないという「危機」だったのである。
 1つ上でサークルを牽引していたスーパーな先輩が、3年生に進級するにあたり次のサークル長をどうするか頭を悩ませていたらしい。いや、悩むも何も、託せるのは私しかいないという状況は誰の目から見ても明らかだった。私もそれはわかっていた。しかし、どう考えても当時の自分の力量で、サークル長の大役は果たせそうになかった。

 忘れもしない。

 暗い、サークル室でストーブの火だけが妙に元気に燃え盛っていたことを覚えている。
 次のサークル長の打診をされた。いつか来るとは思っていた。その時、どうやって断ろうかと作戦も考えていた。その会に出席していたのは、そのサークル長と当時の書記局のメンバーである女性2人、そしてやる気はあるが書記局には入れないバレーボール部兼任のMくんだけである。
 その日の説得は、とても回りくどく、ねちっこく、皮肉っぽく、聞いているだけで嫌になった。「無理、無理、絶対ムリ!」ずっと心の中で叫んでいた私。
 自分が、なぜ出来ないのかを語るうちに、不覚にも声が震え、涙が止まらなくなった。
長い言い訳をしているうちに、いつしか嗚咽していた。人前で泣いたのは、小学校の終わりの会以来ではないか(拙稿「マイアーカイブス4   窮鼠猫を噛む」)。
 ひつこく、ねちこい説得は、私の号泣によりこの日はお開きとなった。

 後に、私は、サークル長を引き受けることになる。
 あれほど固辞していたのに、なぜ引き受けたのかはわからないが、私の器は置いといて、客観的に見て自分しかしないということがわかっている中で逃げるのはダメだと踏ん切りをつけたのだろうと思う。いや、思いっきり泣いた、泣けたことで吹っ切れた部分もあったのかもしれない。
 「義をみてなさざるは勇なきなり」 高校の時に習った漢文の一節である。
 漢文の成績は絶望的だった私だが、この言葉だけは胸に響いていた。


 さて、新しくサークルの責任者になった一番初めの大仕事は「新歓」である。
 新歓とは、新入生歓迎の略。
 まもなく、入学してくる新一年生の歓迎イベントを成功させることだ。そのためのイベントの立案や具体的な日程、作戦のポイントなど発信しなければならないことは山ほどある。
 同時に、学生自治会が盛んにこの新歓行事を進めていた中で、各サークルの長にあたる者は、大学全体のイベントにも様々な役割があった。
 新入生に、大学生活を楽しく送る上での適切な情報を伝えたり、悩みを聞いて相談にのったしした。
 そして、できればどこかのサークルに入会し、「祖国と学問のために」という新聞を取ってもらう。そんなことのために走り回っていた。

 新歓行事に追われる中、4月がまたたく間に過ぎて行った。
 自分も1年前はこんなに初々しかったのかと振り返りつつ、上級生になった高揚感を味わっていたように思う。

 そんな中、大ききな出会いがあった。

 新歓行事の中で、私がチューター(話の進行役、リーダー役)を務めていた会に、それはそれはかわいい新入生がいた。しかも、セツルメントに興味があるというではないか。この子を逃してはならない。いろんな意味で……。
 何の会だったのだろう。なんで、そんなシチュエーションになったのかは思い出せない。
 でも、気がつくと、私とMくんとそのかわいい新1年生の女の子の3人で寮の渉外委員室(当時私が寮の委員をしていたためにあてがわれていた部屋)で、話し込んでいた。
 きっと、新歓コンパの後か、何かだったのだろう。
 彼女は、自宅生だったが、父親が単身赴任で母親も同行しており、家には姉との二人で暮らだったので、比較的自由だったのだ。
 何を話していたのだろう。熱くて、青い学生時代である。偉そうに世の中の話をしたり、セツルメント活動がいかに自分を高めていけるのか、いい気で語ったのだろう。おそらく、彼女は聞き上手だったのだ。
 気がつくと、窓から朝の日差しがさしてきている。

 彼女が言った。
「部屋の電気消してくれますか? 私、外が明るいのに部屋の電気つけてるの苦手なんです」
なぜか、この言葉は忘れない。
 それからもしばらく話は続いた。さすがにそろそろ帰りますということで部屋を出る彼女をバス停まで見送った時、一言言われた。

「電話してください」

 私は、「?」だったが、すでに電話番号は聞いていあるので「はい。わかりました」と答えた。
「もっと、話がしたいので……」と「?」な私に彼女は言った。

 私は、バス停からMくんが待つ、渉外委員室まで、スキップとは言わないまでも、うさぎが跳ねるような(かなり太めのうさぎだが)足取りで帰ったことを覚えている。
「何かが始まる予感」がした。

 その夜、私が、公衆電話ボックスからダイヤルを回したのは言うまでもない。
 受話器の向こうで、電話を待ってましたという彼女の声。
「これって、ひょっとして」
といくら鈍感で、奥手な私でもときめきは隠せなかった。


 一つ下のかわいいかわいい彼女との交際は、こうやって始まった。
 当時、私たちの間ではお付き合いの初めの告白は、こうだった。

「いっしょにやっていってほしい」

 何をやっていくんやという話だが、とにかくこの「いっしょにやっていく」がキーワードだった。
 勇気を振り絞って、この言葉を伝えた時、そして、OKをもらえた時の喜びは、今でも思い出すと足をバタバタさせてしまいそうになる。
 若かった。何もかもが……。こんな歌あったなあ。

 大学2年生の初めから卒業して社会人となったある時まで、この女性とのお付き合いは続く。
 数々のドラマがあった。
 ちょっと自分に酔ってしまいそうで恥ずかしいが、本当にそうなのだからしょうがない。そこについては、いつか、何かの機会に書けたら面白いだろうなあ。ちょっと脚色して青春小説が書けるかも。

 携帯電話はもちろん、SNSもなんもない時代だ。
 さらに言わせてもらうと、女性の体に触れることへのハードルがとても高い時代だった。それは、私だけが特にそうだったのかもしれないが、「結婚するまで、そんなことしたらあかん」と真面目に思っていた自分だった。

 私より、一つ下だったので、その彼女も64歳を迎えているはずだ。
 札幌時代の友人とは年に1、2度会う機会があるが、彼女とは、卒業してから初めのサークルの同窓会であったきりである。音信も耳にすることはない。

 元気であってほしいと心から願う。

ストーム15へ続く

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