初めての「メード」劇場
「なあ、卒業したらみんなで隠岐行かへん?」
自習時間に5人でいつもようにセブンブリッジに興じている時、上川が言った。
「えっ、隠岐って、あの後鳥羽上皇の?」
さすがに受験生である。とっさに「承久の変」で返した柿本。
「そうそう。テレビでやっててん。海がめっちゃきれいですごい断崖絶壁も映ってたで」
今からちょうど50年前、中学3年生の時だ。私には上川、柿本、川田、後藤というなぜか気の合う4人の悪友がいた。
その時は、「まあ、行けたらおもろいやろなあ」程度の話だった。しかし、メンバーの中に、時刻表がお友達、旅行マニアの後藤がいたこともあり、無事受験が終了した後、話はとんとん拍子に進み、高校1年生の夏休みにこの旅は実現の運びとなった。
初めての友人だけでの旅行、寝台特急にフェリー、しかも3泊4日……。初めて尽くしのイベントとなった。私だけでなく他のメンバーも開放感はマックスに達していたことだろう。境港から隠岐の島の西郷に到着した時、この仲間といっしょならなんでもできるんじゃないかとさえ私は思った。
レンタサイクルに跨り、「スカイ・ハイ(ジグソー)」を大熱唱しながら島中を駆け巡った。島の人に聞いた穴場の海岸で真っ赤なビキニ姿のお姉さんと出会ったり、「ここはウツボ出るよ」と脅されても果敢に泳ぎに出たり、夜は夜で青臭い人生談義に花を咲かせたりしながら3日間が夢のように過ぎていった。
そして迎えた最後の夜。忘れられない出来事が起こった。と言うか自ら起こした。
夕刻、タクシーで民宿に向かう途中、ちょっとした繁華街を通り過ぎた。その時、私たちは確かに見た。「メード」と言う怪しげなネオンサインを。でも、みな無言のまま民宿に向かう。宿泊先は「メード」から随分離れたところにあった。
ところが、民宿のおばちゃんから「ごめんね。ちょっと手違いがあってね。違うお宿に泊まってくれる?」と言われ、マイクロバスで別の宿泊所に案内されたのだ。着いたのはあの「メード」のすぐ近くだった。
「なあ、どうする」
「行ってみよか」
「あかんやろ。未成年やし」
「でも、旅の思い出になるで」
夕食を済ませた後、ああだこうだと小さな小屋の前で逡巡する5人の高校生。
そう。「メード」のネオンサインの「メ」は上の横棒が一本壊れていたのだ。本当は「メ」ではなく「ヌ」だったのだ。料金は4000円。映画が600円くらいだった時代、ちょうど民宿1泊分だったと記憶している。
散々迷った挙句、「社会勉強のため」と言う大義名分で私は「メード劇場」ならぬ「ヌード劇場」の木製の扉を開けた。心臓がバクバクしていたことを今でもはっきり覚えている。おそらく、あとの4人も同じだったと思う。
分厚い暗幕をくぐって中に入った瞬間、漂う甘い香り。先に陣取っていた浴衣姿の大人達の鋭い視線を浴びた。「あんたら未成年やろ」と言う言葉が暗闇に浮かんだ。
劇場は、小さな細長い舞台になっていて、鉄製の手すりで客席と舞台を隔てていた。母と娘かなと思われるような年恰好の二人の女性が順に踊った。当時大流行していた「ビューティフル・サンデー(ダニエル・ブーン)」のリズムとともに私達は見たことのない「神秘のベール」の向こう側へジャンプした。
その後、社会人になってからもこの連中とは何度か会うことがあった。この時の話題になると川田は決まって私にこう言った。
「かんちゃん(私)が汗でずってくる黒縁のガリ勉メガネを何回も人差し指で押し上げながらかぶりついてのが忘れられんわ」
60歳の定年を迎えた時、今も時々一緒に飲んでいる後藤ともう一度あの時の男5人で隠岐の島へ行こうと言う話になった。すでに5年が経ってしまい、連絡が取れなくなってしまったメンバーもいるがいつか実現したらいいなと思う。
離れていても、長い間会っていなくても、会った瞬間に時は埋まるだろう。たくさんの「社会勉強」を積んであろう私達はどんな話をするのだろうか。