「国連女性機関の『月曜日のたわわ』広告への抗議意見についての疑義」の件、ややプライベートな補足
そろそろ…
そろそろ、自分が思考したことを残していくために手段を講じなければと悩んでいましたが、実験的に書き始めることにしました。よりプライベートであったり個人的であったりという内容は、某団体のブログとは別の枠組みで、こちらに書こうかと考えております。
書く場所が、どこが良いのかわからないし、違うと思った際には別の場所に移すことも考えていますが、とりあえず始めますので、どうぞよろしくお願いします。
さて、本題です。『HUFFPOST』に、「国連女性機関が『月曜日のたわわ』全面広告に抗議。「外の世界からの目を意識して」と日本事務所長」という記事が掲載されました(※1)。先日、4月15日のことです。この記事について疑問があり、私は某団体から同日、「国連女性機関による『月曜日のたわわ』広告への抗議意見についての疑義」を(※2)リリースしました。
この『月曜日のたわわ』の件では、ツイッターのタイムラインをなんとなく見はじめ、件に関わる投稿を観察していました。すると、それらの投稿から、現在のフェミニズムの問題点が可視化されることにもなりました。ツイッターの投稿について逐一言及するというのは通常行なっておりませんが、せっかくなので、この度の気づきについては書き残しておこうと考えた次第です。
ツイッターで可視化されたこと
まず、一部の投稿に見られる傾向です。個人の考えや経験を、即座に女性全員に拡大し自分自身と同一であるとする「決めつけ」の傾向です。それによって、投稿者はご自身とは異なる考え方や体験をしている女性を切り落とすことにならないでしょうか?
また、「胸が大きな女性の表象が含まれる広告が排除されると、胸の大きな実在する女性が疎外感を持つ場合」が「まったくない」などという、決めつけの投稿もありました。ですが、そうした疎外感を持つ女性の実例は把握しております。ただ、そういった女性に辛い思いはさせたくないしセクハラにもなりかねないので、無理矢理に表に出して証言させたりはいたしません。
色々な考え方や価値観の女性がいるわけですが、そのような決めつけが、「存在しないことにされる女性」を発生させようとする圧力になります。そのように女性の様相を一元化することで、女性の多様性を無視することにもなります。疑義にあげたのはそういった様々な女性がいるという例です。ブログに掲載した元々の疑義本文では、そうした例をあげた上で広告の自主規制団体の話題に及んでおります。しかし、ツイートのみしか読んでいないからでしょうか、その本題については無視したまま、そのように女性を一元化する投稿を拡散する人々がいました(余談ではありますが、ツイッターはコミュニケーションツールとして良い面もある一方で、ツイッターユーザーのそのような層が当方の発言の趣旨を無視して広げてしまうことについては限界を感じ、ツイッター以外の発言メディアを探していたという事情もあります)。
ともかく、「存在しないことにされる女性」問題、これは実はフェミニズムにおける根強い問題です。それは、「ジェンダー平等」を謳いながら、「女性」を分け隔てて自分たちの価値観による「女性」だけを支援することになるのでは? という根本的な問いです。しかも、「ジェンダー」の概念や歴史(つまり元々文法用語だったものが、ジョン・マネー、ロバート・ストーラーを経て、フェミニズムにおいてはケイト・ミレット、アン・オークリーらが取り入れていったという始まりを経て現在に至っているという概念や歴史。なおその概念の形成という意味では、「ジェンダー」という用語を使用していないながらもボーヴォワールが「第二の性」で言及し「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言葉を残している)から、「ジェンダー平等」といっても、そもそも「女性」だけについてフレーミングできるものではありません。
広告表現の炎上云々以前に、このように女性の中で、「存在しないことにされる女性」を生み出す圧力があるという「存在するはずがない」女性の疎外の問題があります。やはり根強い問題だということは、この度のタイムラインからも可視化されました。この疎外のトピックについては、この場でも追々とりあげていこうかと考えています。
デザイナー、アートディレクターとしての私の倫理観
デザイナー、アートディレクターでその業界での仕事を生業としていれば、マスコミ4媒体に限らずツール系およびそれに類するジャンルにわたって、有料パブリシティである広告およびパブリシティに多かれ少なかれ関わることになりますが、私もそのうちの1人です。
今回の件は、そのようにして広告やパブリシティに関わる仕事をしている者の倫理に関わる問題があります。業界に関係がない方の発言を私のような者が禁じるつもりは毛頭ありませんが、その人々の正義や福祉的発言については、鵜呑みにすることはありません。慎重な検証が必要だからです。
広告表現の話をするとどうしてもナチスのことが出てきたり、先日もそのようなことを私の口から言う機会がありました。ナチスというと「相手を怪物化する」ととらえられがちですが、現在の広告表現は20世紀の戦争プロパガンダ下で発展し現在に至っている面があるし(もちろん、バウハウスの存在を忘れてはならないし、バウハウスを閉校させたのはナチスだが)、日本においても例外ではありません。特にプロパガンダ広告表現においては、ナチスの手段を真似したり影響を受けたりもしています。
そういった事情は、多かれ少なかれ広告やパブリシティに関わることを生業にするなら解っておくべきだろうというのは、業界に身をおく私の倫理観です。とはいえ、同業の皆さんがどうお考えかはわかりません。それでも私は、国外宣伝用雑誌「NIPPON」を支えたデザイナーの面々がそのまま業界の重鎮にスライドしていったことは、重く受け止めています。故・亀倉によるかつての東京オリンピックのポスターは、MoMA収蔵になっているし、故人の名前を冠した賞もあります。故人の仕事を全て否定するわけではありません。しかしながら、この業界に身をおくプレイヤーの倫理としては、国家権力その他の大きな権力と癒着し、正義や福祉を含めたスローガンで殊更に感覚的・感情的な煽りを行使するのは禁じ手であると、私自身は考えております。要するにそれは、ファシズムのプロパガンダの手法です。だからこそ、業界内のプレイヤーには慎重さが必要です。
ここまでは、業界のプレイヤーとしてのあくまで私の個人的な倫理観で、個々に委ねられる問題です。しかし、そうも言っていられない、次の問題があります。
事前抑制による表現の自由の侵害の問題
国連の関連機関である国連女性機関日本事務所が、「利害関係のない外部の第三者を、広告の掲載をめぐる意思決定の場に含むようにしてもらいたいです」(※1に同じ記事)などとして、「アンステレオタイプアライアンス」に加盟した企業(この記事の場合日経新聞であろう)の広告について、公表の過程に審査を及ぼそうとなると、広告デザインのプロセスにおける問題も発生します。「国連女性機関の価値観云々」の話は疑義本文において述べており繰り返しませんが、国連とマスコミ4媒体のうちの1つである新聞社(しかも大手の新聞社)との関係において、すなわち、権力と大手マスコミ企業による広告を通した関係において、事前抑制による表現の自由の侵害の有無は問われます。
条約は法律や行政にも影響します。国連は日本が批准する条約に関わっており、行政に影響力がある機関が表現の内容の審査に関わるというのであれば、自主規制上の問題は払拭できません。
自主規制機関は、公権力から中立な第三者機関でなければなりません。そうでなければ、公権力が表現の内容に介入して発表を禁圧することになりかねず、事前抑制の恐れが生まれます。さらに言えば、機関の運営は公正さが保たれなければならず、一部の少数の人に発言力が集中することがあってはなりません。そうなると、一部の人々が独裁的に表現の公表の機会をコントロールする恐れも生まれてしまいます。
国連女性機関日本事務所は即座に公権力であるとは言えないですが、国連は、日本が批准する条約に関わる機関であるといった、国連が持つ日本の公権力への影響力を鑑みた場合に、自主規制機関としての中立性について完全に「白」と言えるのでしょうか? しかもこの度は、大手新聞社の広告表現の内容審査を要求しているという点では、そうした公権力への影響力において権力を持つ機関がプロパガンダ戦略に大手メディアを利用しようという構図があります。
日本国内で議論が続いている中で、国連女性機関日本事務所及び所長から、拙速にも記事のような申し出や抗議行動が本当にあったならば、この時点で、新たなフェイズ、これまでと別種の問題を現し始めたと言えるのではないでしょうか? しかも国連女性機関が、国外の組織の関連機関であるという点でポストコロニアル視点からの問題もありますが、こちらについてもブログの疑義本文にて既に述べており、繰り返しません。
最後に
「HUFFPOST」4月8日の記事「「月曜日のたわわ」全面広告を日経新聞が掲載。専門家が指摘する3つの問題点とは?」は、掲載後に、「作品で描かれているのは数々の痴漢行為」という部分を書き換えて現在の文章になっていますが(※3)、記事について一部の女性から、「痴漢にあう女子高生の恐怖を想像するべき」という趣旨の投稿がありました。それについては、最後に一言述べておきます。
あまりこのようなことを言うことには私は積極的ではありませんが、私は女子高生の頃はセーラー服が制服で、痴漢にも逢っていました。私は痴漢被害当事者です。被害のことはあまり言いたくないですが(あまり掘り返されてもセクハラですから)、成人してからも痴漢のみならずストーカー、露出狂にも遭遇、可能な限りは警察に通報し続けた経験があり、捕まえてもらったこともあります。その上で、この度は疑義を呈しています。
私にとって、痴漢被害の際に最も助けてくれたのが警察で、実際の実在する人物への取り締まりでした。痴漢被害当事者としては、架空の表現の取り締まりに尽力するあまりに実際に役立つ実在する痴漢の取り締まりの方向性を見失えば、ただそのような犯罪者を放置するのみとなるのではないかと、そちらの方が恐怖であり気がかりでなりません。
[注釈]
(※1)「国連女性機関が『月曜日のたわわ』全面広告に抗議。「外の世界からの目を意識して」と日本事務所長」/4月15日「HUFFPOST」記事(https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6257a5d0e4b0e97a351aa6f7?utm_campaign=share_twitter&ncid=engmodushpmg00000004)
(※2)某団体を通した発言とは距離を保ちたいので、今回はあえてリンクは貼りません。ご了承いただければ幸いです。
(※3)書き換え部分については、Internet Archiveから確認できます。
現在の記事(https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_624f8d37e4b066ecde03f5b7)
Internet Archive(http://web.archive.org/web/20220408094140/https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_624f8d37e4b066ecde03f5b7)
書き換え前
「広告は女子高生のイラストをあえて用いることで、作品が発信しているメッセージを確信犯的に、大々的に伝えています。作品で描かれているのは数々の痴漢行為。男性による未成年の少女への性暴力や性加害そのものを日経新聞が肯定する構図です」
書き換え後
「広告は女子高生のイラストをあえて用いることで、作品が発信しているメッセージを確信犯的に、大々的に伝えています。作品で起きているのは、女子高生への性的な虐待。男性による未成年の少女への性暴力や性加害そのものを日経新聞が肯定する構図です」
なお、「ジェンダー」の概念を考えた場合、「ジェンダー平等」のフレーミングでの「痴漢撲滅」の課題設定にはそもそも疑問があります。