チェンソーマン第二部 前々回(2024年2月14日)の感想 ナユタは死に、デンジは家族を捨てた…?
前回は2部で一番良かった回だと個人的には感じる。超モブな群衆がしゃべりまくるのはもうやめてくれとは思うけど。「ちょっとやめなよ!もう!」は緊張感なさすぎて流石に笑う。逆にギャグとしてモブを使ってないか、ってくらい。今回で一旦それは落ち着くと信じたい。早くアサがみたい…
デンジの家族についての認識
ナユタの一部と二部の空白を埋めるシーンが印象的に描かれていたし、支配の悪魔だけでなくデンジの中でも「家族」という存在への思いがくすぶっているんだなというのも新しく明言されていたのも、2部の軸が固まってきている感がした。
チェンソーマンになりたい
バルエムが「右側には家族、左側にはチェンソーマン この2つを天秤にかけてみろ どっちが上だ?」と聞かれた時の表情は、その2つで葛藤していたのだろう。また、吉田ヒロフミにチェンソーマン協会とアンチの衝突を見せられながら「どちらかを選ぶときが来たんだよ ナユタちゃんかその醜い欲望 (チェンソーマンのこと)かをね」と言われたシーンも、家族かチェンソーマンか、という選択をデンジに迫っていたのだ。第一部公安編の最終巻でも、岸辺とコベニの前で "チェンソーマン " になりたい、というデンジの欲望が描かれていた。また、ポチタが支配の悪魔は"家族 " のような対等な関係をずっと望んでいたとデンジに明かすシーンも描かれていた。一部と二部で、自分の欲望と家族の存在というテーマは継承されているということだと思う。
チェンソーマンに心が傾いて家族を失う?
ただ、デンジは吉田に欲望と家族の二者択一を迫られた時に、「2つ選ぶ!どっちも!」と言っている。それがどう転ぶのかが読めない。前回の最後、ナユタがあのまま群衆に殺される展開なのか。つまり吉田のフラグ通りの展開で、デンジは2つ両方は守れなかった、ということになるのか。それともデンジの宣言通り両方守れるのか。個人的には前者になりそうな気がする。なぜならデンジが家族と欲望を2つとも守れたとして、あの状況で、殺されかけているナユタを助けたのはどう考えてもデンジではない。そうなると「2つ選ぶ!どっちも!」のセリフがあまり生きてこない。ナユタが死んでデンジが「2つ選ぶ」という自分の言葉を守れなかったら、哀愁が残って良い感じになると思う。つまりデンジはチェンソーマンになる選択をした結果、家族を守れなかったというオチの方がいい。2ちゃんとかではナユタ死んでも特に何も感じない…と言っている人も多いけど。元マキマだという設定は個人的にはナユタが死んだ時に結構喪失感を与えそう。支配の悪魔 (マキマ・ナユタ)とデンジ共に家族というテーマは共通していることが話の軸を作り始めているだけでなく、実際は二人の関係 (マキマへの恋、ナユタとの生活)について描かれているわけで、一部・二部ともに一貫してデンジと支配の悪魔という関係の、ストーリーに占める大きさが損なわれていないと思う。たしかにナユタは登場回数がマキマほど多くはないしデンジとの関係を一部ほど緻密に描いてはないけど。マキマの延長としてナユタが位置づけられていて、それが二部でも話の中心に近づいてきている。そう考えたらマキマとデンジの関係+ナユタとデンジの関係で話に深みが出始めている気はする。
逃れられない罪の記憶
前回の最後のコマが「逃れられない"罪 " の記憶……」という言葉で締められている。もちろん、罪の記憶というのは一部の「開けちゃダメだ」とデンジの夢の中でドアの向こうからポチタの声だけがする例のアレで、マキマが「やっと扉を開けられた」と言って、酔った父親に殺されそうになったデンジが父親を殺した記憶のことだ。
一部で印象的だったのは、マキマの部屋で「自分の父親を殺して…そんな人が普通の生活なんて望んでいいはずがないよね?」とマキマに言われ、幼少の姿に戻ったデンジが「うん」と答えるシーンだ。二部のデンジにとって普通の生活というのは、ナユタと犬猫たちとの生活のことだ。ポチタと出会う前の幼少のデンジにとって唯一家族である父親を殺したという"罪 " の意識。"逃れられない罪の記憶…" というのは、二部でもその罪の意識からデンジは解放されていないということだろう。ナユタとの生活をする家族にはもう戻れないということを暗示しているような気がする。家族ではなく生きる欲望 (父親に殺されずに生きること・チェンソーマンとして生きること)を選択し、家族との普通の生活を捨てる。その罪からデンジは逃れられない。デンジはナユタを失った結果、家族を捨てたことになり、またチェンソーマンになるのかもしれない。
考察: キリスト教の原罪
もしデンジの罪に作者が何らかの教養的な背景を加えているとしたら、キリスト教の原罪という思想かもしれない。デンジがいつも武器人間の槍マンに刺されるのはキリストが捕らえられ処刑されるときに槍で刺されたことに由来しているらしいし。チェンソーマンという話も救世主を意味する英単語から来ているという話も聞く。原罪は、人間は生まれながらにして罪を背負っているという思想。アダムとイブが善悪の知識の実を食べて自分たちが裸 (つまり動物ではなく人間)であることの恥を知ってしまい、神に罰として楽園を追放されると言う話だ。それに従えば、デンジが罪を許されることはないのかも知れない。あと、偽チェンソーマンがテレビに出たときに、悪魔と戦う目的を聞かれて「悪魔がいない世界を創るためです 悪魔がいない世界でアダムとイブは…」と言っているところでデンジが「違ァアあう!」と絶叫している。アダムとイブを善悪の知識の実を食べるようにそそのかしたのは、悪魔のサタンである。そのサタンがいない世界ということはアダムとイブは罪を犯さないので原罪はない。それをデンジが「違ァアあう!」と否定しているということは、デンジは家族を殺したという罪から逃れられないということかもしれない。