未来を拓くソルの物語「マイ責任論」

 未練、ではあるのですが。
 直前の「障害者雇用、ある真実」――「緊急投稿」と「続報」をしめくくった後。
 どうしても、これを話しておきたくなりました。

(一)無私の献身

 助けが必要?
 では……力になろう、と思ってしまう。
 あなたを理解したい、と思いすぎてしまう。
 思いが空回りして、少なからずジタバタする、みっともなさを。
 昔々の同僚は、鼻で笑いました――「Sさんて、バカみたい」
 ごもっとも……身のほど知らず、ただのバカ、にすぎないものを。
 無私の献身、と決めつけて……か。
 湯水のように重宝した姑は、なじったものです――「あなたができるふりをするから、あの子は、仕事がうまくいかないのよ!」
 せめて、ひと言「ありがとう」を聞きたい……私が、本音を隠せない時。
 足かけ十八年連れ添って、三十年近く前に別れた夫――姑の言う「あの子」には、四の五の言わせないための、キメゼリフがありました。
「鬼の首を捕ったみたいに、威張りやがって!」

(二)気がつくと「おせっかい」

「もっぱら性分で」というのも。
「人生初」は、年端も行かないころ、親に対して、でしたから。
 早々幼稚園時代、気づき始めていました、両親のプロフィールと関係に。
 父親は「救いようのない浮気性。
 イケメンで優しく、情に流されやすいが、国家公務員ノンキャリア組としては、トップ集団のひとり」
 母親は「めちゃくちゃ難しい性格。
 まちがいなく家庭内暴君、文字通りの暴力もふるうが、ウチから一歩外へ出れば、誰もがほめちぎる、出来物」
 二人に仲良くしてほしくて、バカみたいに心を砕き、手を尽くしたものですが。
 父にとっては(新しい)彼女との仲をカムフラージュする、便利な子。
 母にとっては、立腹モノの役立たず――終生、嘆いたように「生んでもいいことがなかった」子。
 こっちこそ、腹が立つ、泣きたいのに。
 気がつくと「おせっかい」に及んでは。
「心破れる」展開に流されてばかり。

(三)バイバイ、ハートブレイク

 転機が訪れたのは、我が子が三十になった(忘れもしない)半年後。
 小学二年の担任から自閉症を疑われた、前も後も。
 カメにも追い越されそうなゆっくりマイペースを、しんぼう強く見守りましたが。
 五十代を迎えて、しんどさもひとしおの、ひとり親を尻目に。
 子には、自立の気配すらありません。
 ある日、人間関係にヨワすぎる自分を、けとばしたくなりました。
 両親、配偶者との失敗を……子との間でもやらかしたら?
 母子そろって地獄行き……かもよ。
 最悪の事態を避けるべく、脳ミソを絞ってあがくこと、それから十余年。
 つまり、「考えながら、歩く」
「歩きながら、また考える」ようにして、生きる。
「ゆっくり」「ていねいに」「考える」のと、同時進行で生きる。
 この妙な根性は、私のたったひとつの取り柄――良い方に解釈すれば。
 あれ?
 子の「ゆっくりマイペース」は、バカ親譲り、かもしれません。
 もしや「ていねいに」「考える」も遺伝?……可能性はあります。
 考えているうち、気づくことがあって。
 考えているうち、参考になる本やヒント、アイディアが降ってきて。
 わかることが増えるたび、増えた分だけ「バイバイ、ハートブレイク」
 行く手が、あかるんでいきます。

(四)不幸なまでに生きにくい場所

 長い年月、「親切なSさん」「優しい人」とおだてられながら。
 心の叫び(そんなんじゃないよッ!)を心の内に隠したまま。
 良い子、出来た人を演じてしまう自分を、あざけったり、憎んだりしてきました。
――平原綾香さんが歌う『ジュピター』を思い出して下さい。
 よりかなしいことは、さて何でしたか。――
 この世に「自分をけなさずにいられない」くらいの不幸はありません。
 不幸とは?
 たとえば「こんなにもかなしくて」
「とてもじゃないが、生きられない」と感じながら、生きること。
 あるいは「週六日、フルタイム働いても、低収入で」
「とてもじゃないが、生きられない」リアルを、生きること。
 感じるだけでも、死にそうなほどつらい。
 リアルが伴えば、カンペキ不幸、といえます。
 私が育ったのは。
 普通よりやや恵まれた、中の中の上、ほどの家庭――両親の努力の賜物、でしたが。
 不幸なまでに生きにくい場所、でもあったのです。

(五)エゴイズム

 父のエゴイズムが母を、不幸なまでに苦しめると。
 母のエゴイズムが父を、不幸なまでに苦しめ返す。
 二人の果てしない応酬は、三歳上の姉と私も、不幸なまでに苦しめます。
 家族の間を渦でも描くようにめぐりながら、年がら年じゅう、家庭内にとぐろを巻くのは、たしかに不幸でした。
 理屈でなく全身で、五歳前には、思い知っていました。
 不幸は、連動、連鎖、循環する。
 そいつを何とか断ち切りたくて。
「子はかすがい」をやりすぎる、というわけです。
 だって、幼い私が不幸を免れるためには。
 まず、パパママの不幸を追っ払わなくちゃ。
 ところが、どちらにどれだけ掛け合っても、ろくな反応がありません。
 実の親子同士でも、縁はいろいろ。
 両親は、デッカイ不幸のかたまりを、永遠に放置できそう、なのに。
 私は、ちっぽけな不幸に、一瞬のガマンもなりません。
――他人は絶対に知り得ない、その激しさは、不幸アレルギーか(時に)アナフィラキシーショック、と思うほど。
 そういう性質(気質、体質)に生まれついた、と考えて、今は、どうにか折り合えています。――
 それゆえに、何さておいても自分が幸福であるために。
 親、家族に、幸福でいてほしい、と願う。
 これもまた、エゴイズムではあるけれど。
「結果」家庭という小さな社会で。
 幸福が連動、連鎖、循環するようになったら「オーライ」ではありませんか――バカとエゴイズムも、使いよう。
 過去を何億回ほじくり返しても。
 私から両親へのおせっかいが、最初から最後まで、骨折り損のくたびれもうけに終わった……事実は、変えられません。
 それでも、自分が「良い子、出来た人、ぶりっ子」ではなかったと。
 この際、はっきりして、ああ、スッキリ。

(六)とことん困った親の使い道

「ほんの、子ども」「たかが、子ども」
 子どもをあなどり、見下す大人、とくに親は、きっと星の数ほどいます。
 そのなかで「不幸をひたすらガマンする」ぶりっ子。
 かつ「我が子にも、同じ轍を踏ませる」考えなしは。
 いく人いるでしょうか。
 その点で、私の両親は、世にもお似合いのカップル、といえました。
 念の入ったことに。
 夫婦の不幸な縁を、切断または修復する。
 いずれを選ぶにしても、それぞれと子どもたちのために。
 自らが果たすべき、責任を。
 婦唱夫随――私の生家では、これが正解――のごとく。
 次女で末っ子の私へ、転嫁――丸投げえええッ!?
 とはいえ「子らの衣食住には、万全の心配りをしています」アピールは、大げさでなく。
「公徳心と他人への親切心には、非の打ちどころがありません」も、掛け値なしにその通りで。
 だから二人は、親にあるまじき無責任さを、寸分も自覚できません。
 ならば……最後の手段は「わざわい、転じて福」
 とことん困った親の使い道、を探してみました。
 見つかったのは、ひとつだけ。
 彼らは、責任というあいまいなものについて、世界一よく考える、みごとな土台を育んでくれたのです。

(七)大手ショッピングセンター

 近年のこと、「責任とは何か」理解する上で、決定的なヒントを拾ったのは、某、大手ショッピング(モールではなく、旧式の)センター。
 それは、たまたま、たて続けに遭遇した、小さな出来事でした。
 人気のない場所で、せいぜい二歳前のおチビが、目当てのお菓子を目指してか、商品の棚を(うんしょ、よいしょ)クライミングしています。
 隣の通路をチラ見しても、保護者の影形はなくて(しょうがねえなあ)
 ひょいと持ち上げ、床に下ろし、まじまじ見つめて「アブナイよ、のぼっちゃメ、ね」
 言うが早いか、トトトと駆け出すので、後を追ったら(エライ!)
 小さな足には、はるか彼方のおかあさんらしきを探し当てて、ぐずる様子もなく(ホッ)
 日を空けずに行き合わせたのは、就学前と見える二人が、オマケの方がデカイお菓子のフィルムを破っている場面です。
 すぐ横で、従業員さんがひとり、棚に何か商品を補充しています。
 が、その横顔は不自然なまでにかたくな――何が何でも、そっちを見ないぞ、みたい。
 ほかに人はいなくて、「おーい、おとうさーん、おかあさーん」大声で呼んでも、駆けつける誰かがいたかどうか。
 私も、こっそり立ち去りました。

(八)マイ責任論

 責任が発生するのは、まちがいなく、命がかかっている場面や状況です。
 これも買い物先での、さらに小さな出来事を。
 通りすがり、腰の曲がった小柄な老婦人が言うのに、立ち止まりました。
「そこの大きなおねえちゃん、悪いけど、あれを取ってちょうだい」
 高い棚の最上段にある商品を指していますが、誰に向かって?
 ほかに人はいなくて……私の隣にいる、背の高い娘には、お安い御用。
 これと、責任――命の存否が、どうつながるのか、すんなりとは説明できません。
 一方(前項で)私が勝手に介入した幼児のクライミングは、命の危険(リスク)もあり得るケースでした。

「自分の命に自分で責任を負えば、安全無事に生きていける」
 そう、確信デキル。
「自力のみで自分の命を守り、保つことは可能」
 そう、断言デキル。
 この場合、体得するべきは「自己責任」に限られます。
 でも、デキルいさぎよさは、どんなリアルに根ざすのでしょうか。
 いささかうさんくさい……どころか、あり得ないほど非現実的、バーチャルにも等しい、危なっかしい、と思えてなりません。

 責任の発生するところには、必ず「助力を求める人」と「助力を求められる人」が存在します。
 自力に満ちあふれた人が、助力を求める自分を想像するのは難しいでしょうが。
 自力のみで命を保守できない場面や状況は無数にあり、あらかじめすべてを想定することは不可能です。
 そこで、責任とはどういうものか。
 常日ごろ、リアルにそって踏まえておくことが、先行きの安全無事につながっていくのです。

 件の老婦人は、自力で店へ足を運び、購入したい商品の場所もつきとめました……しかし、困った、手が届かない。
 そこでひとつ、覚えておけば、役に立つ知恵を。
 日常と火急を問わず、どうしても助けがほしい時、「誰か、助けて!」はいけません。
 耳にした多くが、「誰か」と「自分」を、とっさに結びつけられないからです――レスキューのプロ以外は、とりあえず、自分ではない誰かが助けるだろう、と判断する。
「○○さん、これとあれをそこへ動かすのに、手を貸してもらえませんか」
「そこの人、赤いパンツを履いて黄色いシャツを着た黒メガネのおにいさん、助けて!」
 具体的に指せば指すほど、助けを得やすい。
 あのご婦人は、このことを知っていた、というわけです。

 目の前の人を助けるにしても「なぜ、何を、いつまでに、どう助ければいいのか」
 わからないことだらけでは、うまく助けられません――大きな助けが必要なら、なおさら。
 きぜんとした老婦人は、一発でわからせてくれました。
 人と人の間に、「助ける」「助けられる」関係がスムーズに成り立つかどうかは。
 出発点の、助けを求める側にかかっていること。
 助けを求める者は弱く、助ける者は強い……先入観は余計者。
 彼我に自力の差はあっても、担う責任は、たぶんに同等です。

 もっとも、娘に求められたのは、わざわざ「自力、助力、責任」などを持ち出すまでもない、カンタンな内容。
 その人が買いたかったのはカップめん、でした。
「命の存否や保守」につなげるのは、さすがに大げさでしょう。
 でも、想像して下さい。
 雪山のホワイトアウトに巻かれて道を見失い、ビバークするうち食料も尽き、凍死は時間の問題、という機に、天が熱々を差し出したら。
 その一杯は、生死を分けるかもしれません。
 また、老婦人が「最期にあれを食べたい」家族の望みをかなえるところだったら?
 私は、足下に転がるつまらない経験に、得意の想像力を足しながら、ていねいに考えることで、マイ責任論を積み上げてきました。
 自分も他人も、人がリアルに生きようとする、身近で小さな営みを。
 天下国家やグローバルスタンダードに比べれば「取るに足りない」として、顧みなければ。
 いざ、リアルな命が大きな岐路にさしかかっても、安全無事に通過できる、と思えません。

(九)「責任」というモノサシ

 私が通過した人生サイズの分岐点は、四つ。
 二十歳、「この人と一緒にいたいから」というだけで、結婚した時。
 三十七歳、結婚から無一文で放り出され、親権を丸投げされた時。
 五十一歳、どうすれば三十歳の子が自立に向かうのか、途方に暮れた時。
 そして今夏、六十五歳。
 いきなり「障害者雇用、ある真実」の渦中に放り込まれた時――現在進行中の異常事態。
 困難に失敗の上塗りをしながら、場数を踏んで、わかってきたのは。
「責任」というモノサシの有用性、ですが。
 生きる(ライブの)リアルと不可分の「責任」を、杓子定規に物語ることはできません。
 ひとすじなわではいかない、その追求に努め、以下のあたりまでは、理解することができました、というだけの話です。

 自力をほとんど当てにできない、ごく幼い人には。
 全面的な助力と「保護責任」を恒常的に引き受ける、特定の大人との安定的な関係が欠かせません。

 ある乳幼児の保護責任者が、どういうわけか、見当たらない。
 またはハンディに阻まれて、あるいは緊急事態によって。
 人が、自力だけでは命を保守できない場合。
 いっさいの助力がなければ、最悪、命にもかかわります。
 この人は困っている、危ない。
 そう察知した「近親者、関係者」だけでなく「通りすがり」でも「大人全員」に発生するのが「道義的責任」です。
「情けは人のためならず」
 見て見ぬふりをする大人が、もしも圧倒的多数を占めれば?
 万一、自分や係累が危ない、困っても、助けに手が届かない……社会のかたすみで、無視と放置の憂き目にも逢いかねません。
 そうはいっても、必要とされる助けに対して、「どこまで責任を負うか、負えるか」については、慎重、冷静な判断を要します。
 助け舟に助け舟、その助け舟にも助け舟があったら。
 道義的責任を引き受けるハードルは、どれほど低くなるでしょう。
 責任というものが「ちゃんと大人になった大人」にしか取り扱えない、ゆえんです。

 いずれも個人に託される「自己」「保護」「道義的」責任に対して。
 社会全体や専門的な細部に関わるなど、個人では負いきれない領域を引き受けるのが、社会的立場に属する「社会的責任」です。
(前々項で)購入前の商品を破損する子を目にした瞬間、心をよぎったのは、自分の道義的責任ですが。
 見知らぬオバサンが突然に注意すれば、びっくりさせて、怯えさせるだけでしょう。
 幼い心にキズを残す恐れはあっても、誰かの命にかかわる事態でもありません。
 危険な目に遭っていたのは「商品」
 そして、本格的な成長期を迎えている「公徳心」――社会生活の安全無事を願って、有形無形のルールを身につけ、守ろうとする、心でした。
 前者には、店を代表して社会的責任を負う、従業員さん。
 後者には、保護責任を負う、誰かさんが対応すればいいのです。
 そこをさしおいて、第三者がしゃしゃり出れば、事はよけいややこしくなります。

(十)道義的責任が「わからない」

 一店舗にあふれる商品のうち、一個ばかりが売り物にならなくなった。
 その年、小学校に上がる全国の子どもで、二人きりが放っておかれた。
 絶対的に限られた被害、というなら、不幸中の幸い。
 想像力をかき立てられるトピックには、事欠きません。
 もっと、もっと大きく、広範囲に及ぶ社会的責任を負う人たちが。
 また、保護責任を負う少なくない人たちが。
「おのれの責任、どこ吹く風」で、平気の平左。
「知らぬふりこそ、通常運転」ならば。
 この先、連綿と営まれていくのは。
 ちゃんとした大人が存在し得ないために。
 命を保守するのが、どこまでも……筆舌に尽くせないほど、困難になっていく社会。
 
 暗い想像の元凶を、一個だけ挙げておきます。
 日本の最高学府を卒業後、少壮で兵庫県知事に当選した人物が。
 パワーハラスメント疑惑を追及された、公の場で吐露しました。
 道義的責任がどういうものか「わからない」
 自分の命を保守することは知っていても。
 仮にも上司が、進退きわまった部下の生死について、何ら知るところはない?
 彼の立場に求められる社会的責任は、さらに難しく、重大です。
 もしも担える器でないなら、できることは――知らぬふりをするか、つぶれるか――限られてしまい、社会運営どころではありません。
 全部ひっくるめて痛ましい話題の、是非善悪ではなく。
 大人にあるまじき人間が、社会の命運に関わる地位を得てしまう、既成事実を。
 その前で得々と胸を張るかあぐらをかくか、沈黙するかうなだれるか……いずれも、ろくになすすべがない、自分も含めた人間と社会を。
 震撼せずにはいられません。

 けれども私には、命の限り生きている、リアルがあります。
 いびつな親子関係ゆえに、子ども時代から四十代いっぱいまで、あいまいもことしていた、責任について。
 わかることが多くなってから。
 生きて、人――とくに、我が子――と関わることが、ラクになりました。
 自らが「責任を果たす」
 誰かの「責任を問う」
 どちら側に立つ時も、責任のなかみと範囲、性質を可能な限りクリアにして。
「わたし」と「あなた」それぞれの「自力」と「助力」を、巧みにブレンドさせながら。
 双方が、じゅうぶんに命を守り、保てるところを「創出」していきたい、と願う、今日このごろです。

(十一)応用編「障害者雇用、ある真実」における責任

 縷々、物語ってきたモノサシを当てて、この真実を測っておきたいと思います。
――真実について、ご興味があれば。詳しくは、前回(続報)前々回(緊急投稿)をご覧下さい。――
 職場の所属部署に、新しく入った、私と同い年、六十五歳の男性Cさんは、何らかの傷病による脳の損傷から、重い障害を負っている、と思われました。
 そこの仕事に不可欠な体力、注意力ほか諸々の力を総合して、感覚的に表せば、最高を100として、最低でも60は必要でしょう。
 自己評価で、私は64。
 主なマイナスポイントは体力です。
 重い物を扱う作業では激しい息切れがします。
 終業後、家に帰り着けば、全身の節々がくまなく痛くて、まともな格好で歩けず、モノをつかむのにも難儀します。
 Cさんを現場に丸投げ、同然にした会社は。
 どんな障害なのか、情報をぜんぜんくれないので、一緒に過ごしながら、見当をつけたのにすぎませんが。
 はなはだしい記憶障害、注意障害、遂行機能障害、社会的行動障害、軽度の身体傷害があるCさんは、どんなにオマケしても、20が限界。
 就労から一か月経って。
 わずかな仕事をまだらにしか覚えられないのはムリもない、とはいえ。
 自分が働く場所への順路さえ、毎日のように、忘れてしまうのです。

 初め私は、頼まれもしない――ハケンの報酬にはとうてい含まれない「配慮、支援、保護」業務を買って出ました。
 そうしなければ、Cさんは安全無事でいられない、自分たちも。
 それに、作業にも支障が出る……気がつくと「おせっかい」をやらかしていました。
 どの道、とんでもない道義的責任を押しつけられたのは、ほかの同僚二人も同じだったのです。
 その重圧と、通常業務を並行させながら、三人は、心身ともに疲弊していきました。
 拍車をかけたのは。
 あの手この手、四方八方手を尽くして、窮状を訴え続けても、「知らぬふり」「聞かぬふり」「我関せず」「なしのつぶて」を貫く。
 人事担当と上位の管理責任者でした。
 適材適所の真逆を行くことになった、言い訳は?
「この先、どうするつもりか」いくら尋ねても、返答ゼロの異常事態。 
 だから、あくまでうわさにすぎませんが。
「会社は、何も知らずに採用したから」……障害者枠での採用なのに?
 障害の程度と仕事内容をつき合わせもせず、右から左へあっせんした、ハローワークともども、社会的責任を放り投げていることは、明白です。

 すったもんだしながら、見えてきたのは、Cさんの自己責任でした。
 さかんに訴えます、弱音なんか吐けません、まだ大学生の子がいる、稼がなくちゃならない。
 年金受給年齢に達していて、二級の障碍者手帳を持っている(うわさ)のに?
 なるほど、親としての責任を果たしたい。
 心情は心情として、果たせるのかどうか。
 赤の他人でも、手取り足取り付き添っていれば「稼ぐより、障害への対応が先」である事実を、痛感させられます。
 しかし「これじゃ、クビですねッ!?」「それじゃ、クビですかッ!?」
 時も場所も選ばない大声には、不安、焦りにも増して、執念のようなものが感じられ、思わずひるんでしまいます。
 でも、ねえ……そんなに、ここの仕事を手放したくないの?
――公から会社への助成金(三か月就労しないと、支給されないらしい)込みで、よそよりも時給がいいのかな。――
 別の部署の人たちにとって、Cさんは。
 困惑、イライラ、好奇のマト、うわさのネタ、どうでもいい人。
 もたつく作業を罵る人には打つ手がなくても。
 迷子になった時、保護してくれる人なら……みかたにできるかも。
 現場で道に迷う頻度を減らせたら、声をかけてもらえるかも――「Cさん、慣れてきたね」
 そんな思いで。
「カンタンに人を頼らないで、せめて、洗浄室(私たちの部署)へは自分で来て」
 同僚のひとりも、働きかけた、と言います。
「洗浄室くらい、自分で来られるように、工夫できないのか」
――できる、と思う根拠もあって。安全性に疑問符はつくけれど、会社へは、自分で車を運転して来ているのです。――
 初めの小さな一歩がうまくいけば、あるいは……楽観もありました。
 二人それぞれに対する、Cさんの反応は烈火のごとき、でした。
 言い分をかいつまむと「無理な要求をするのは、辞めろということか」
 私へは(そんな仕打ちをするなら、みたい、脅すように)
「職場放棄しますッ!」とまで。
 気がつくと「おせっかい」な自分を、バカのアホのマヌケに思えて……久々の、ハートブレイク。
 心の内で、くり返し、何度も、Cさんに最後通牒をつきつけました。
――その文面。
 ごめんなさいね。
 それが「弱音を吐かない」あなたのやり方なら、私はもう、力になれないから。――

 六十五歳が、逆ギレ?
 障害と元々のパーソナリティ、どちらのせいか、私には知りようもありません。
 就労は困難と、本人が判断できないならば。
 一緒に住んで、深刻な障害に気づかない、なんて、まさかですから。
 配偶者、大学生とはいえ成人と思われる子……家族が力を合わせて保護責任を果たす、という手もあるでしょう――重い障害を抱えたおとうさんに、おんぶに抱っこ、ですか。
 家族関係の不可解さまで思っていては、とても身がもちません。
「当人は自己責任を果たせず、家族も助力を手控える。
 社会的責任もお留守。
 となれば、道義的責任に立ち行く余地はない」云々。
「得難い経験だった、と思えばいいさ」云々。
「責任って、ホント、ムズカシイねえ」云々。
 理屈をこね、独り言をつぶやき、愚痴をたれながら。
 私はもはや、少量の出血を伴った心のかすりキズが、跡形もなくなる日を、心待ちにするばかりです。
《追記》就労支援の相談員が、Cさんの就労状況をたしかめに来た(らしい)けれども、二週間は過ぎたはず。
「就労可否」の判断は、会社に通知されたのかどうか。
 現場作業員は、あいかわらず何も知らされていません。
 風のうわさによると。
 誰だかわからない上司は、こう言っているそうな――誰に向けて?
「三か月はガマンしろ」

《次回予告》前々回と同じです。
「未来を拓くソルの物語」シリーズ第二作、第一部。
「絶望退治に出かけよう」
 十月以内には投稿予定です。
 ふたたびお目にかかれますように。


 



 




 

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