
【エッセイ】『これくらい』という呪縛。『普通』という呪いの言葉が少なくなれば世界はもう少し優しくなるだろうか。
「俺ができるんだから誰でもできるでしょ」
仕事場で、年上の先輩が吐いた言葉が私の耳に飛び込み、しばらく頭から離れなかった。
違和感だった。
その人は自分を下げる意味、謙遜を込めて言っていたのだと思うけれど、違和感だった。
先輩が言った言葉と同じ言葉を、自分を下げる意味でなく使う人もいる。
ただ、雰囲気は違うにせよ両者とも『他者に自分と同じスキルを押し付けている』ことには違いがない。
そこに自分が思う『普通』の押し付けがあることには違いない。
それができない人にとっては辛く感じる言葉でもあるのに、凶器になっていることに気づかず、人はその言葉を使う。
そして、また誰かが苦しんだりする。
当たり前とか普通とかそういう前提みたいなスタンスがこの世から無くなればいいのにと過剰に反応してしまう。
なぜ、ここまでに私が違和感を感じるのかというと、私が過去このスタンスを浴び続けて、追い詰められたことがあるからだ。
私は他者からの『普通』に支配されすぎて、自分のことを無能だと無価値な人間なのだと結論づけた。
これくらい人を追い詰めるほどの魔力を持った言葉なのだ。
ちなみに、それから色々あって、今は無能や無価値とは全く思っていない。
今は、
私たちは一人一人できることが違う。
私たちは一人一人できることがある。
そう私は思っている。
「普通」や「当たり前」や「当然」それら誰かが決めた基準のような言葉は、一人一人が『個』であることを忘れさせてしまう、呪いのような言葉だ。
それに、出来るというのにも度合いがあるだろう。
『楽に出来ること』
『少し頑張ればできること』
『自分を犠牲にしてできること』
このどれかに当てはまってるものが「できる」という言葉で括られてしまう。
グラデーションがあるはずなのに。
ひとまとめにされてしまう。
基準の押し付けは怖いこと。
自分も他人も『個』であり、違うもの。
それを全員が念頭に置いて、世界や他人を見るようになることができれば、この世界はもう少し優しさに溢れた世界になるのではないかと。
そう思ってしまった。