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<連載小説> 沈み橋、流れ橋
―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり―
第2章(11)
「廣谷鋳鋼所」の工場長、岡坂愛之助がその才能を思う存分羽ばたかせることができたのは、彼を信頼して仕事に打ち込ませた社主、廣谷駒蔵のおかげと言えるが、愛之助の「野心」ともいうべきものに火をつけたのは、ある立志伝中の経営者とのほんの短い邂逅だった。十六歳で広島の因島から裸一貫で大阪に出てきて、一大企業「久保田鉄工」を創業した久保田権四郎である。彼の大阪での最初の奉公先は、西区の九条通にあった「黒尾製鋼」という鋳物業者なのであった。台はかりの台や天板を作る看貫鋳物技術の習得が、彼の偉業の出発点だった。
愛之助は明治三十六(1903)年の内国勧業博覧会で、すでに名を轟かせていた久保田権四郎に接触を図るも、会うことは叶わなかったが、明治も終わり頃になってその機会は思わぬ形でやってきた。中之島の中央公会堂で開催された、機械工業会主催の講演会に愛之助は出席し、会場の外で偶然、一人でいた彼を目に止めたのだった。講演会の当日の資料にその名があったので、もしかしたらと期待していたら、そのとおりになった。愛之助はすぐさま近づき、話しかけた。名刺を差し出すと久保田は、「廣谷鋳鋼所、ああ、存じてますよ。内国博覧会に、確か車輪を出されておられた」と返事をし、愛之助を感激させた。
気づくと我が英雄を前にして、夢中になって喋っていた。たったの数分だったに違いないが、二人は立ち止まったまま、もう何年も前からの知己が何年ぶりかで会ったように、お互いの話をしては、聞き手にも回った。久保田の運転手が迎えにこなければ、ずっと語りあっていただろう。久保田は言った。商いは順風満帆ばかりなわけはない。好景気と不況は繰り返し、世界情勢も一刻一刻と変わる。一つに固執しては駄目だ。多角的に、時代に応じた、新しい製品を引っ提げて打って出よ、心が踊るものを探して、前に進め。そんな言葉が、愛之助の中に残った。人柄にも考えにも魅了された。曽根崎新地の料亭で、駒蔵と未来を血気盛んに語った若き日の興奮が蘇った。そんな熱情を、この人は今も失ってはいないのだ。
戻ってから駒蔵にその興奮を伝えた。おお、それは良かったやないか、うちの名前、知っとったか、と駒蔵も喜んだ。愛之助が威勢のいい要素ばかりを吸収し、舞い上がるのを、諌める役割を担う駒蔵ではなかった。二人はいいコンビではあったが、暴走の危険も秘めていた。
時代も動いていた。大逆事件が起こり、日本は韓国を併合する。明治時代が終わろうとしていた。世界大戦の足音がすぐ近くで聞こえていた。
駒蔵の年長の息子三人は大阪を離れたが、謙三の行方は、杳として知れないままだ。美津は千鶴を慰めてあげたいが、大火以来ぎくしゃくしてしまって、口を聞く機会もろくにない。駒蔵と交わした約束通り、千鶴の子供達は老松町の家で暮らすようになった。次男の英造は武と同学年、三男の七郎は勇とひとつ違いで、これまでも二つの家を行き来する関係だったから、暮らしには無理なく馴染んでいった。美津にはそのことがせめてもの喜びだった。
一方、駒蔵は老松町にめっきり帰って来なくなった。焼け野原にはならなかった新地はずれに駒蔵が用意した借家で、千鶴は赤子の一枝と女中のお亀と暮らし始めたが、そこに出かけて行くことが増えた。千鶴を慰められるのは今は駒蔵しかいない、それは当然のことだと美津は思った。駒蔵からは、時々、千鶴の様子を聞いた。
「ちゃんと食べてはるん?」
「女、ゆうもんは大した生きもんやなあ。一枝のために食べなあかんゆうて、無理してでも食べよるわ」
「そうだすか。そんなら良かった、どんどん美味しいもん食べさせてあげてください」
今はそうやって、遠くで見守っているしかできない美津だった。何もできない自分は黙っていることこそが、千鶴のためになるのである。
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誠治郎の二つ下の三郎は、北野中学に入るのに二年かかった。どこかぼさーっとしている子だった。さらに二つ下の富郎は、子供の頃から聡明で小学校の成績も良かったが、ぜんそく持ちで身体が弱く、卒業した最初の年は中学受験ができなかった。そんなわけで、誠治郎が卒業して三高に入った年に三郎が、翌年富郎が、兄たちの去った学舎に後輩として入学してきた。
美津は、体が頑丈だった三郎に「富郎のこと、気にかけといてやってな」と、毎朝のように言って、二人を一緒に送り出した。三郎は気が利く方ではないが、富郎は心優しく繊細な子で、三郎の不得手な部分を補ってくれる。それに兄として立ててもくれるので、三郎も母親の言いつけに従ってよく面倒を見た。二人でいると、三郎は力が大して強いわけではないのに、外見はがっしりと逞しそうに見えたから、一緒についていてやるだけで、やわな弟の用心棒役を果たした。
富郎が特に得意としたのは「綴り方」(作文)で、中学に入ってからは、論理的思考も伴った文章を書いた。兄弟の中では将棋が一番強く、北野中学の校友会誌『六稜』の文芸欄に、一瞬にして勝敗が決する瞬間を「敗の刹那」と題して描いた文章も残る。
角が盤上に舞い降りる。その刹那、飛車の死は決定する。
直前まで死ぬことを恐れなかったが、生きる喜びを刹那に奪われた飛車は、潔く死を受け入れる。そのせつなさはむしろ、快楽に映る。
そして富郎が中学一年生になるひと月前に、千鶴は二人目の女子、春枝を、翌年の暮れには、駒蔵の十一番目の男子にして最後の子、のちに「寿一」と改名することになる十一郎を産む。どんなに困難でも、新しい生命をこの世に生み出すことはすなわち、生きている証だった。千鶴の子らの誕生を自分の幸福として喜び、祝うことで、どうにかなりそうな心と体を、美津は保っていた。
四十五年続いた明治時代は終わりを告げ、新しい元号「大正」の時代が始まった。(つづく・次回の掲載は3月1日の予定です)
*参考資料 「北野百年史」(北野百年史刊行会発行)、「創立五十周年」(大阪府立北野中学校六稜同窓会発行)、「久保田鉄工八十年のあゆみ」(久保田鉄工株式会社発行)
* 実在の資料、証言をもとにしたフィクションです。