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<連載小説> 沈み橋、流れ橋
―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり―
第2章(12)
明治四十三(1910)年に、誠治郎は京都の第三高等学校に入学していたが、その年の秋に、“自治”を標榜する東京の第一高等学校に対し、“自由”をモットーに掲げて名を馳せた第三高等学校の初代校長・折田彦市が辞任。折田のもとで生徒たちに醸成された自由の気風が学風として根付くには、まだ時間がかかることになった。学内に広まるそのなんともいえぬ空気感の中で、規則づくめの中学時代には味わえなかった自由を精いっぱい吸収しにここへ来たつもりだった誠治郎は、気を削がれた気分になった。その代わり、もう一つの夢が急激に膨らんでいく。中学時代から抱いていた大陸への憧れだ。
中国はその頃、歴史の大きな転換点の中にあった。明治四十四(1911)年に武昌で辛亥革命が起こり、年明けて二月には、宣統帝が退位して清朝は滅亡。中華民国が成立するも、その後も混乱は続いていた。中国の興亡は直ちに日本の命運に関わると考えずにはいられない若者ならば、志を大陸に向ける時代であった。誠治郎もこの歴史と伴走したいと思う若者の一人だった。
そんな思いが膨らんでいくのと同時に、ここ京都で、誠治郎にある「めぐりあい」があった。中学時代に単なる娯楽として、女学校生徒への付け文を楽しんでいた頃にはまるで感じることはなかった、異性への極めて純粋な感情が湧き起こったのである。それは異母兄弟の謙三を探す行動に端を発した。
謙三は、京都の奉公先から仲居とふらりと消えた。誠治郎は母親の美津に、「何か手がかりでもないやろか、気にかけといてほしい」と強く言われて京都に来ていた。お母ちゃんは、自分の生んだ子でもないのに優しすぎるんやわ、と誠治郎は母を歯痒く思う一方で、自分は謙三にこんなに優しくはなれないが、なんとか探し出したいとは思うのだった。
そこで考えたのが、「京文化研究会」という会を作ることだった。謙三が逃亡した料亭を皮切りに、京都の花街を幅広く、取材と称して見学させてもらう。三高の学生さんが研究のためにとなると、三業地の敷居も低くなろうとの魂胆だ。無論、研究会として論文を書いたりする気は毛頭ない。ただ、哀れな弟を探す手がかりを見つけるためのものだ。三高で新しくできた友人が一人、面白がってそれに乗ってくれた。研究会発足だ。
しかしそれは想像以上に容易ではなく、謙三の姿はいつまで経っても朧げなままだったけれど、研究活動の最中、先斗町のある置屋で、誠治郎はその舞妓と出会う。
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目論見通り玄関先で丁寧に相手をしてくれた女将と、誠治郎たちの間を、「ほな、おかあさん、行ってまいります」と、まだお座敷に上がり始めたくらいの舞妓がすり抜けて行った。きれいに支度をしたまだ少女といっていい舞妓は、「お早うおかえり」と声をかける女将の肩越しに、盗み見るように視線を上げて誠治郎を見た。それまでにも目にしたことのある光景だったが、誠治郎は少女のまだ世間擦れしていない、好奇心に満ちた瞳にその時射抜かれた、と思った。瞬間的に思い起こしたのが、「源氏物語」の、光源氏が紫の上を見つける場面だった。あの場面をいま自分は体験している気がしたのだ。知らず知らずに目は彼女の後を追いながら、女将に「可愛らしい子ですね、まだ幼なそうに見えましたが」と尋ねていた。
「お前、何考えてんねん」と友達は呆れ、女将も「学生さん、そういう研究しにいらしはりましたん。尋常小学校出たばかりどすえ。あきまへんえ」と笑う。
そういうつもりでは、と慌てて言い、その場は笑い事で済んだ。でもその時のことを思い出すたび、誠治郎は「あれが俺の初恋」と回想するようになった。少女を幼く見せる黒目がちの瞳の奥には、二十歳の誠治郎を惑わせる光があった。「紫の上」が浮かんだのは、その未完成さに翻弄されたせいだと思えた。純粋に彼女に恋したと知った。舞妓名が「多美乃」と言い、本名は「民」であることだけは女将に教えてもらった。
父親が遊び慣れた大阪の料亭ならいざ知らず、ここ京都の料亭など学生風情がとても通える身ではなし、彼女の成長を見続けることなどできまい。透き通るような白い頬と黒い瞳を持つ小さな顔、「行ってまいります」と一言だけ漏らした鈴を転がしたような声を、鮮明な記憶のまま誠治郎は心の奥に封じ込めた。
花街研究は、誠治郎に鮮やかな恋心を植えつけただけで、なんの研究成果もなく終わった。謙三の行方はまるでわからないままに、月日は過ぎる。そもそも謙三の足取りを辿ろうにも、いなくなった料亭「さわ翔」では、廣谷という名を名乗った時点ですでに出入り禁止であった。えげつない女将や、と父が言っていたことを思い出す。母には悪いが、阿呆な弟を探すのは諦めた。
帝国大学進学のための予備教育を行う機関としての高等学校は当時三年制で、このまま普通にしていれば帝大に進学することになるという現実が、誠治郎を漠とした不安に晒していた。そんなとき母から、東京にいる信太郎がえらいことになっている、との手紙が来た。
東京高商にまで入ったのに文学かぶれして、酒と女で身を持ち崩し、体も壊しているらしい、卒業もできなそうなので、大阪に連れ戻すとお父ちゃんは言うてはる、あんただけが頼りや、とあった。
なんやねん、どいつもこいつも。
誠治郎は自分だけが優等生のコースに乗せられ、挙句の果てに家を継ぐことを期待されているのかもしれないことに、突如怒りが湧いた。三高理工科を卒業してそのまま箔をつけるためだけに帝大生になって、父の事業の足しになるのもごめんだと思った。今こそ、夢を果たすときかもしれないと思い始めたちょうどその頃、中国・上海にある学校の存在が頭の中を占めるようになっていた。
その名を「東亜同文書院」という。
(つづく・次回の掲載は4月1日の予定です)
*参考資料:和田博文他「言語都市・上海」(藤原書店)、西所正道「『上海東亜同文書院』風雲録」(角川書店)
* 実在の資料、証言をもとにしたフィクションです。