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  <連載小説> 沈み橋、流れ橋

―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり―


第1章(15)


 二十世紀が幕を開けた明治三十四(1901)年二月、九州に官営の八幡製鉄所が開業する。日本政府が製鉄の重要性を認識して「工部省」を設立したのは明治三(1890)年のことだが、その十年後に設立した官製の釜石製鉄所は失敗して民間に払い下げられ、原料の銑鉄はまだ輸入に頼らざるを得ない状況だった。八幡製鉄所が軌道に乗って、日本の産業革命はようやく、重工業が発展する本格的な時代に入っていく。
 そんな時代に、駒蔵は、岡坂愛之助と共同経営による新会社を設立した。八幡製鐵所開業の翌年十二月のことである。年が明けて明治三十六(1903)年三月から大阪で開かれる「内国勧業博覧会」に一緒に出品しようという愛之助の提案が、会社設立へと結びついたのだった。博覧会の開催を念頭に、愛之助は駒蔵を誘った。いや、迫った。
「これから鉄の需要がどんどん増える、言うたんはあんさんでしたな。うちの岡坂鉱業所はまだまだ家内工業でっけど、鋳物はこれからどんどん近代工業になっていきまっしゃろ。どうだす、一緒に鋳物会社やりまへんか。わては駒蔵はん、あんさんと組みたいんだす。工場、建てまひょ」
 愛之助は常に貪欲に、前だけを見ている男だった。彼の製作した工業用機械を見た駒蔵は、精巧で丁寧な職人仕事に目を見張ったものだ。これから国産の優良な鉄が使えるとなれば、さらにいいものを作るだろう。最初から駒蔵の心を捉えた彼の魅力的な手が生み出す優れた製品を空想し、己の勘に賭けてみようと決めた。
 会社名は、「鋳物」や「鋳造」よりもさらに重厚さを感じられるようにと、「鋳鋼所ちゅうこうじょ」とすることを決めたが、冠をどうするかとなって、「岡廣」、「廣坂」、はたまた全く新しい名をつけるのか、二人でさんざん考えた末に、愛之助が言った。
「小さい店でっけど、うちは岡坂鉱業所の名も守っていかなあかん。そや、あんさんとの出会いがあってこそ、この道筋はついたんや。新しい工場は『廣谷鋳鋼所』でいきまへんか」
 その言葉は駒蔵の胸を熱くした。こうして、所主を廣谷駒蔵、工場長を岡坂愛之助として、「廣谷鋳鋼所」が誕生した。工場建設地は、淀川南岸沿いの中津村に確保した。
 明治三十七年版「大阪府下会社組合工場一覧」「大阪府大阪市統計書」などに、以下の記載がある。
「種別:琺瑯ほうろう 工場名:廣谷鋳鋼所 主要製品:鋳鋼 所在地:西成郡中津村光立寺 創業年月日:明治三十五年十二月 職工人員:二十八 原動力:蒸気力(機数1) 馬力:十四 持主:廣谷駒造(ママ)」
 扱うのは、琺瑯を主製品に、チルド鋳物、セメント各鉱石、各肥料用粉末機械などに加えて、各種車輪、船舶用石油発動機、セメント製造機械など、その種類も規模も順次拡大していく。

 愛之助の弟、武一の、粗野だが新しもの好きの大胆さも力を発揮し始める。彼は貿易にも大いに興味があるらしく、「正栄社」が扱う輸出製品分野の拡大を駒蔵に進言した。主力商品の「スダレ」に加え、日用品や装飾品、特に繊細で手の込んだ造花など、ブラジルでそうした日本の雑貨の需要があるという情報を仕込んできたのが武一だった。それらを輸出品目に加えると、実際に業績が出始めたので、駒蔵は愛之助と話し合って、彼には正栄社に籍を置いて、貿易に携わってもらうようにした。
 生まれつき苦労知らずのボンボンである駒蔵にはない力を、彼ら兄弟が有しているのは確実なことだった。大きいことをしてやろうというざらついた野心むき出しの兄弟に駒蔵はかなわずとも、同じ方向は向いている。正栄社同様、廣谷鋳鋼所も寸暇を惜しまず、工場を稼働させた。

 新工場建設と運用に力を注ぐなかにあって、駒蔵はさらに息子を授かっている。明治三十三(1900)年、美津が第五子・武を出産するや、同年、千鶴は第二子・英造を産んだ。明治三十五(1902)年にも千鶴は、重いお産で双子(第三・第四子)を産むが、一人は出産時すでに息はなく、最初に生まれてきた子は七郎と名付けられた。それから幾月も経たないうちに、今度は、三十路を過ぎてすでに五児の母親となっていた美津の妊娠がわかった。
 駒蔵は、次々と我が子を生んでくれる美津と千鶴をありがたいと思う一方で、こうも男ばかり続くと、美津の美貌、千鶴の愛嬌を兼ね備えた女児の誕生を、待ち望むようになっていた。ただそれが一向に叶えられないにしても、子らの存在は、商売を拡大していく格好の励みとはなっていた。めまぐるしく変化していくお国のために、その担い手を次から次へと生み出しているという自負もないではなかった。
 駒蔵と美津が暮らす正栄社の社屋兼住居は、いまや住み込みの丁稚はおらず通いの社員ばかりとはいえ、子どもを育てるには手狭になりつつあった。新しい邸宅を構えたいところだが、工場を建てたばかりで余裕がない。千鶴の希望で笹部姓を継いだ謙三と、廣谷姓を名乗った母親の違う似通った年齢の兄弟たちは、老松町と、「京縫」のある曽根崎新地を自由に行き来しながら成長していくことになった。
 子どもたちにとって「母」は二人いた。美津の生んだ信太郎、誠次郎、三郎、富郎、武は、千鶴を「笹部のお母さん」と呼び、千鶴の生んだ謙三、英造、七郎は、美津を「廣谷のお母さん」と呼んだ。そして兄弟間では、単純に自分より年上を「〇〇兄さん」と呼び、年下は呼び捨て、というルールができた。そして、御寮人さんとして廣谷家の家計を預かる美津と、女将としてお茶屋を経営する千鶴のために、子どもの面倒を見る「ねえやん」に「ばあや」、子守役の少女が何人も雇用された。
 一日として心配事が起こらない日はない、子どもたちが暮らす二軒の家は、それはそれはけったいでやかましい、生活感あふれる場所となっていった。
(つづく・次回の掲載は6月1日の予定です)

*参考資料 「大阪府下会社組合工場一覧」「明治三十七年大阪府統計書」
* 実在の資料、証言をもとにしたフィクションです。





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