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  <連載小説> 沈み橋、流れ橋

―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり―


第1章(6)


 断髪、脱刀を自由とする「断髪脱刀勝手令」が施行されたのは明治四(1871)年のことである。しかし容易には旧士族に浸透しなかった。多くの平民にとってもそれは差し迫ったことではなく、相変わらず丁髷ちょんまげを結っていた。翌年、大阪府の大参事が「頭髪ニ関スル諭達」なるものを公布して散髪を促す。曰く、「頭部は人の精神が集まる重要なところであるから、大切にしなければならない、頭部を日光や寒風にさらすことは病気の原因ともなる、髪を伸ばし頭部を保護する必要がある」。その類いの諭告は、やがて全国へと広がっていく。
 当然、旧士族は武士の誇りでもある髷を落とすことにはたいそうな決断を要したであろうが、明治九(1876)年正月、近江屋の十一代当主となった商人・駒蔵に、はなからそんな感慨はなかった。
 元来が新し物好きの駒蔵は、当主になる前からいち早く月代さかやきを剃るのをやめて、前髪を後ろに撫でつけて髷を結う「総髪そうはつ」にしていた。幕末の志士みたいなその頭に羽織袴という出で立ちで、駒蔵は当主就任のお披露目をしたが、実はそのなりは気に入らなかった。武士の時代はすでに終わり、髪形も“勝手にすべし“とお触れが出ているのだ。断髪して正月飾りの座敷に颯爽と登場し、奉公人の度胆を抜くことも考えたが、一世一代の場を演出してくれた両親が逆に肝を潰すことになるのではと、その考えは封印した。特に体の弱い母、とみの心中に思いを致せば、あまりに突飛すぎる計画ではあった。だからほんの少し延期することにした。

 近江屋では、正月十一日に鏡開きと蔵開きを行う。年末から飾っておいた鏡餅を割り、店の蔵も開け始めのお祝いをする。鏡開きの時刻は仕事が上がり始める午後三時と決まっていたが、奉公人が気もそぞろに集まってくるなか、肝心の当主は姿を見せない。奥向きにも店にもいなかった。当主無しに行事を始めるわけにいかず、大番頭の佐助が、身の周りの世話をする女衆おなごしを呼びつけて尋ねた。
「だんさん、どこ行かはったんか、知りまへんのんか」
「へえ。お昼に御膳を片付けにあがったときには、もう出て行かれてましてん」
 暢気な答えに佐助が小さく舌打ちしたところへ、表から「おいでやすー」と、丁稚の元気のいい声に続いて、ぱたぱたという草履の音が聞こえてきた。どうもその客が奥まで入ってきたようである。丁稚が慌てて、
「あの、お客はん。あの、そっちは……」
 と声をあげるが、着流しの大島紬に毛織りのトンビを引っ掛けた、客人と思われた男は構わず奥に入ってくる。そして集まっている奉公人たちの前で、落ち着いた様子でトンビを脱いだ。女衆たちからひゃーともきゃーとも取れるけったいな声が上がり、その“散切りジャンギリ頭”の客人が、あろうことか十一代当主その人であることが明らかになる。
 髷を落とし、頭のてっぺんからそのままストンとうなじまで下りている髪は、まるで烏の濡れ羽色、女人の黒髪のように美しい。奉公人たちは目を丸くして駒蔵に見入った。近江屋のある老松町から曽根崎に向かう通りをこんな頭で歩く士族や商人を、ごくたまに見かけては丁稚が面白がって後をつけていくこともあったが、この屋敷内ではとにかく第一号だったのだ。
「どうや。ジャンギリに触ってみるか?」
 年少の丁稚の手を取って、駒蔵は自分の頭を撫でさせる。最初はおっかなびっくりの丁稚も、その感触が気に入ったかしつこく撫で続け、番頭から「だんさんに何してんねん」と拳固を喰らう。
「えろう遅なりました。髪結かみゆいがぐずぐずしやはってな。ご隠居はん、御家おえはん、お待たせいたしました。ほな、始めまひょか」
 何事もなかったような駒蔵のその一言で、準備の整っていた鏡開きが始まり、餅を木槌で割った後にぜんざいが全員に配られる。皆が競って頬張る中、駒蔵は新たな企てを口にした。
「新しい年が明けて、これから時代もどんどん変わっていくんやさかい、わたしもこんな頭にしたんでござります」
 ぽんぽんっと髷のあった部分を叩くと、丁稚どもが笑い声を上げる。
「近江屋一同、まずは外見から変えて行こ思うねん。ほやさかい、皆で、チョンマゲ切り、しまへんか」
「えーっ?」
 今度は手代らの間から驚愕の声が上がる。
「断ちバサミでチョッキンと切りまんねん、ほしたら、髷がコロンって落ちまんねん。今からここで一斉にやりまへんか。皆でやったら怖いことあれへんし。そのあとは、順々に髪結行って、わたしみたいに綺麗にしてもらいなはれ。金は近江屋が出しまひょ。さ、チョッキンすんなら今でっせ」
 駒蔵は奉公人全員に笑みを投げかけながら、ある年齢以上の大人たちの顔が不安そうなのを見てとって、付け加えた。
「もちろん無理にとは言いまへん。今ここで切りたいもんは、ハサミ持ってきなはれ。わたしがチョッキンしますさかい、髷は自分で持って帰って好きにしなはれ。ほんで番頭ばんとはんに銭もろて、床屋へ直行や。もう話はつけてきてまっさかいな」

 かくして、近江屋の「チョンマゲ切り」の儀式は、皆がぜんざいをすすった後、中庭に出て執り行われた。幼い丁稚たちはそのとき全員が散髪し、以後、五分刈り頭になった。それまで駒蔵のように総髪にはせず、月代を整えて身だしなみに気を配ってきた番頭や手代は、突然の当主の号令にその日は承服しかねたものの、新時代に踏み出すべき時であることは、その後時間をかけて理解していった。
(つづく・次回の掲載は2024年1月1日の予定です)

* 参考資料:刑部芳則「洋服・散髪・脱刀 服制の明治維新」(講談社選書メチエ)、宇佐美英機 編著「初代伊藤忠兵衛を追慕するー在りし日の父、丸紅、そして主人」(清文堂出版)
* 実在の資料、証言をもとにしたフィクションです。



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