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『出口』と題された詩について。
レイモンド・カーヴァーの詩集を読んでいる。
『出口』と彼が題した詩があって、魅力的な題名だと私は感じ、何度も何度も読んだ。
村上春樹さんが翻訳した日本語、原文がないから、微細なニュアンスはつかめない。
「 その頃には、死というものは、
もし起こったとしても、他人の身に起こることだった。僕の両親くらいの年の人たちに起こること。あるいは、有名人なんかに起こること。
たとえ死んでいなくなっても、僕とも僕の死とも無関係な、
高額所得者みたいな人たちの身に起こること。」
作品から私が抜粋した上の文章で、「僕とも僕の死とも無関係な」のあたりは、分かりづらい。英語に訳すと少しは理解できる。
カーヴァーは、《死を出口と考える》のかもしれない。しかもその死は、作者からは縁遠い。
がさつな抒情を排除してカーヴァーは書いている。
よく分からない詩で、快活なタッチが、死をさらに浮かび上がらせている。その死は、後ろめたさのある暗さでもない。物質的な何かだと私は思う。
期待した《出口》でもなかった。それとなくやり過ごすことで、作者カーヴァーは生きている。
私は井伏鱒二の『山椒魚』を思い出していた。そういう閉塞状況と『出口』を重ねて、何かが得られると期待していた。
重要なことは、カーヴァーが《書くこと=出口》と考えている点。
※『ウルトラマリン』
レイモンド・カーヴァー著
村上春樹 訳
『出口』
中央公論新社