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書評『火の誓い』河井寬次郎

2024年8月、「京都くらしの編集室オンラインサロン」の勉強会に参加しました。今回のテーマは「書評コラムを書いてみよう!」。
とても学びになった、と思うだけではもったいない。学んだことを自分の身につけるには、アウトプットあるのみです。
今回はタイトルの通り、下記の本について書いてみます。

河井寬次郎『火の誓い』講談社文芸文庫、1996年

河井寬次郎は1890年(明治23年)島根県安来に生まれた陶芸家で、柳宗悦、濱田庄司らと共に民藝運動の活動をしていました。陶芸家としての作品だけでなく、木彫や、エッセイをたくさん残しています。
1914(大正3)年から京都で暮らし、1966(昭和41)年に76歳で亡くなりました。
1937(昭和12)年に自ら設計して京都に建てた自宅は、今では記念館として一般に公開されています。

『火の誓い』との出会いは、今から20年前のこと。
私がまだ20代だった頃、職場で出会った人が薦めてくれた本です。
その人のセンスの良さに憧れていた私は、この本を紹介してもらってすぐ本屋さんで買い求めて読みました。

この本を読んで、河井寬次郎の言葉を知れば知るほど、魅力的な人だと感じました。私が生まれるよりも前に亡くなった人にどうして今も心惹かれるのか、考えてみました。

  • 言葉に嘘がないように感じるから

  • 作品を創作しているとき沸き上がる思いや言葉に共鳴するから

  • 人を褒める時の言葉に、言葉以上に、敬意と愛情と応援の熱を感じるから

……などと書いてみたけれど、一言でまとめようとすると、何かが違うという気になり、もどかしさが募ります。
多分、私は論理的に理解したのではなく、感覚的な、詩的な部分に反応しているからかもしれません。

私は子どもの頃からものを作ることが大好きで、その「好き」をうまく言語化できていまま大人になっていました。でも、河井寬次郎の言葉には、ものづくりの楽しさと、創作時しているときの楽しい感覚が込められています。読むほどに心地よくなります。

私の幼い頃の記憶には、絵を描いたり、粘土遊びをしたり、布の端切れで人形の服を作っていたことがたくさんあります。母の趣味が洋裁だった影響で、針の使い方を覚えたのは、確か3歳の時だったはず。見栄えのいいものは作れなくても、自分の手から何かが生まれていく様は、幼心にも面白くて、無心に楽しんでいました。

ものを作っているときは、自分の頭の思考だけではなく、手が勝手に動く感覚もありました。「こうしてみたい」という意思が手に伝わるのか、手が先に行動するのか。どちらが先なのかは分からないのですが、例えるなら「指先に意思があるような感覚」です。
子どもの頃は言語化できなかった楽しいときの感覚を、河井寬次郎の言葉で呼び起こされている気がしました。

特に河井寬次郎の詩は、ものを作っているときに降ってきた言葉や、脳内で流れる映像を見ているような感覚になります。没頭しているときにだけあらわれる映像というか、心と体ではない、また部分に光が差すような感覚、とでも言いましょうか……。

私の印象を書くだけだとわかりにくいので、私が良いなと感じたところを、いくつか抜粋してみますね。

材料と技術さえあれば、どこでも美しい物が出来るとでも思うならば、それは間違いであると思う。
 人は物の最後の効果にだけ熱心になりがちである。そして物からは最後の結果に打たれるものだと錯誤しがちである。しかし実は、直接にものとは縁遠い背後のものに一番打たれているのだという事のこれは報告でもある。
 昭和二十八年秋

(P.12)

そう、材料だけあっても、作る技術があったとしても、出来上がるものが同じになるわけではない。うんうんと頷きたくなります。
例えば、料理。
材料と作り方を同じようにしてみても、料理の先生のようにおいしく作れるとは限らない、とか。あるいは、いつもと同じように作っていても、機嫌がよくないときは、おいしく作れないとか……。

柳(宗悦)にささぐ

みにくいもの見えないめくら
美しいものしか見えない眼

人に灯ともす人
人の灯明に灯をともす人

道を歩かない人
歩いたあとが道になる人

(昭和二十八年二月)

(P.74)

河井寛次郎には、柳宗悦がこんなふうに見えるのかと、なんと美しいことかと、心が洗われるような気持ちになりました。誰か友人を称えるときには、こんな風に言ってあげられたらいいなと、心にメモしておきたい言葉です。

開扉
焼けてかたまれ 火の願い
(中略)
祈らない 祈り
仕事は祈り

誰が動いているのだ
これこの手

動かせば 何か出て来る
身体動かす
(中略)

 美の正体
ありとあらゆる物と事との中から
見付け出した喜

機械は存在しない
機械は新しい肉体

生活の花―文化
叡智の実ー文明
 慧知は本能の変形

同じ底辺を持った無数の三角形
 ―人間

 閉門
何物も清めて返す火の誓い

(PP.190)

長い詩ですが、ここまで読んで下さる方なら、ぜひ原作を読んでいただきたいです。ものづくりが好きな方には、きっと響くものがあるかと思います。
何を作るのかは、人それぞれ違っていい。それぞれの人が作りたいもの、やりたいことの多様性にわくわくします(「同じ底辺を持った無数の三角形」のところは、それを言いたかったのかなと推測しています)。


この本を読んだあと、私は初めて京都へ一人旅をしました。それまでは、旅行は誰かと一緒に行くものだと思っていたのですが、河井寬次郎記念館で、誰に気を遣うでもなく、一人で彼の暮らした空間をじっくり味わいたいと思ったからです。
河井寬次郎記念館では、彼の残した作品を間近に見ることができました。
陶芸を焼く登り窯も保存されています。家の間取りも面白く、2階から1階を見下せる障子窓があったりして、ユニークな家の造形も感じられました。
もう20年も前のことですが、今でも当時一人で味わった河井寬次郎記念館の心地よさ、みずみずしさを思い出すことができます。あのとき、一人で旅して本当に良かった!

この本と出会ってから20年。その後、私は結婚をして実家を出て、何度か引っ越しをしました。それでもこの本は手放せなくて、今も家の本棚に置いています。
今では本の紙が酸化して、綴じられていない三辺の端から紙が茶色く変色してきています。それでも、たまにページを開くとその度に「こんな言葉があったのか、この人には世界がこんなに綺麗に見えるのか」と気付かされ、幸せな気持ちにしてくれます。
いつか、子どもたちにも読んでもらえたらと願っています。大切にとっておきたい本です。


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