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「事故物件、浄化いたします。」第12話(最終話)
☆12☆
春になった。
裕司は、今日で退職する。みゆの進学先が妻の実家近くになったからだ。妻の実家は今の職場からは遠いため、夫婦で話し合いを重ねた結果、別居生活を終わりにして三人でもう一度一緒に暮らすためには、裕司が転職して妻の実家近くへ行くことが一番良いと判断したからだ。
ベルセレナマンションで勤務する最終日。この日は偶然、小沢家が退去する日でもあった。
引っ越し業者による荷物の運び出しが終わると、真理亜と百合亜が管理人室まで挨拶に来た。
「管理人さん、短い間でしたがお世話になりました」
そう挨拶する百合亜に対して、裕司も心を込めて返答する。
「こちらこそ、大変お世話になりました。私も、今日が最後の勤務日なので、お会いできてよかったです」
「こちらは、退去届になります」
百合亜が書類を裕司に手渡した。
「小沢さんがおっしゃったとおり、あれから狐さんたちは来ませんでしたね」
裕司がそう言うと、百合亜はふふっと笑った。
「親ばかかもしれませんけど、娘はいい仕事をしたと思いますよ。これからあの部屋に住む方は、きっと平和に暮らせると思います」
「そう言われてみると…事故物件などという言葉はありますが、幸運物件という言葉はきかないですね。あの部屋、そう呼びましょうか?」
「それだと広告っぽくて、あまり信じてもらえそうにありませんね。出世部屋ならどうです?まだ誰も出世していませんけど」
二人であははっと笑う。1109号室について、こんな軽口を言える日が来るなんて。事件が起きた頃には想像もつかなかった、と裕司は思った。
もちろん、前の住人の遺族にとっては、忘れがたい悲しみはいまだに残っている。以前、百合亜と真理亜がユニコーンマンションに出向いたのは、そこに暮らす遺族へ、亡くなった夫の最後の様子を知らせるためだった。そのときに、水晶玉へ遺族の悲しみを継続的に移す手配をして、今も例の銀髪の男に癒してもらっているという。時間薬の一種のようだが、少しでも早く効き目があるといい、と裕司は祈るような気持ちでいる。
「管理人さんは、表情が明るくなりましたね」
百合亜にそう言われ、裕司はゆっくりと微笑んだ。
「そうですか?そうですね……今にして思うと、初めてお会いした頃は、正直おかしかったと思います。自分では普通のつもりでいましたが」
裕司が妻子と別居するほどすれ違うことになったのは、なにもベルセレナマンションの事件だけが原因ではなかったと思う。家族を守るためには仕事が大切、仕事のためにと、人生の優先順位のつけ方をいつの間にか間違えて、大切なはずの家族を、一番後回しにしていた気がする。時間の使い方、気の遣い方、挙句、笑顔の作り方まで……どれも仕事第一に作り上げていたせいで、いつの間にか、妻子が本当は何を求めているのか、深く考えられなくなっていた。
そんな裕司が、1109号室での不思議な体験から、自分の見るべき世界が変わったような気がしている。あの日、妻に連絡して初めて、自分にとって一番大切なものに焦点を合わせられた気がした。
裕司は、小沢家の人たちに感謝したい気持ちが溢れそうだったが、百合亜と真理亜の笑顔を見たら、言葉にするのが気恥ずかしい気もするし、もうわかってもらえていそうな気もした。思いは声にできなかったけれど、胸の内が温かくなっていた。
「退去届、たしかに受け取りました。どうかお元気で」
裕司がそう言うと、真理亜が言った。
「今度こそ、独り立ち試験に合格しますね」
なんと、また事故物件に住まうのですか……。
<了>