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ネコズミックアドベンチャーシリーズ『愛とは何か?』

 ……ご機嫌よう、諸君。吾輩は只の哲学者だ。

 或いは神仏のお力で、森羅万象の御言葉を聴く魂かもしれない。

 吾輩が住まうこの宇宙……ネコズミックは、現実の宇宙に存在しているし、存在しない。

 或いは神仏が観る微睡の夢であり、それは″普遍なる愛“によってできている。

 ……シュレディンガー方程式により、架空の猫が理論上、一匹迷子になったのだ。その猫の存在証明に端を発するのがこの猫宇宙(ネコズミック)。

 ただそれだけの話。

 では愛とは何か?
 ……諸君は答えられるだろうか。

 それは一側面的には"交換"である。

 吾輩の家のエンブレム。
 ……家紋に、そうも書いてあると読める。

 愛≒交換とは、必ずしも等価とは言えず、洗脳や妄信ではなく、略奪でもないことが前提であり、お互いの距離を縮めることが必要不可欠なものだ。

 それは、ぐるぐると廻る。

 吾輩の心としての愛が人の形をしているとき。

 それは吾輩であるが、吾輩ではない。

 テセウスの船の話を知っているだろうか?

 船旅の中、港の町々で都度改修し、パーツを全て交換し終えた船は、最初に船出したものと同じ船であるか?

 これが哲学におけるテセウスの船の問題である。

 テセウスの船はテセウスの所有していた船だが、その材質は最初に船出した船とは違うものだ。

 だが、テセウスの船である。

 人の愛とは、出会った頃から時を重ね行くテセウスの船旅に似ている。

 宇宙の愛は、溢るる器に注がれゆく神酒の、さまざまなエネルギーの交換にある。

 神の持つ器を測るには吾輩の権限では足りぬかもしれぬが、たぶんそういうことだろう。

 哲学者の中には、真理を求めるあまり相手を"ただ否定し続ける"態度を、方法選択的に執る者も居る。

 それは愚の骨頂だ。そこから態度を改めない限り、永遠に分かり合えない。

 それに終止符を打ったのが、世界的には近代哲学の父・デカルトだ。

 彼は、一旦世界のすべてを、疑うことから始めた。

 例えば、この書面に書いてある文章は、果たして正しいのか?

 そして貴方は、本当に文字が読めているのか? それは正しいのか? 

 うむ、常軌を逸している。
 
 人の眼は反射屈折した光を電気信号に変え、視神経を通り脳で処理する。
 
 現代では確かにわかっている事実だ。
 
 だがその知識が間違いであったら?
 
 何を信用する?
 
 デカルトは懐疑の末に"自身"という意思の存在は否定しなかった。
 
 否定できなかったのではなく、否定し得なかった。
 
 これを否定して得るものは"空"だけだからだ。
 
 西洋哲学ではエレメント式が地水火風の四元質(根:リゾーマタ)それら万物の始原(アルケー)の分離(憎:ネイコス)と、結合(愛:ピリアー)で説明された。
 
 ところが極東の小さな島国において、宇宙の式は陰陽五行図に集約された。
 
 太極という諸元から陰陽に分たれ、また陰陽があり……。

 それらは五要素のエレメントに行き着いた。
 
 そしてそこに"空"が足されたのだ。
 
 "空"だけでは、"空"を説明し得ないのである。
 
 ゆえにデカルトは、当時の智のほとんどを以て"空"を見つけ、同時に"世界のすべてという宇宙の認識"を認めた。それを哲学を以てして西洋世界に知らしめたのである。

 これが哲学の第一原理。

 二千年近く前、この国の表の知識から消えた空白期。

 世界では秘された何かの約定があった。

 吾輩はそう思う。
 
 そうそう。ここ猫宇宙(ネコズミック)の地球型惑星ニャッテラでの吾輩の名はダルタニャン。
 
 ……デカルトと同じくフランスの地の文学『三銃士』という物語の主人公に肖った名だ。

 彼はアトス、ポルトス、アラミスの三人の銃士と同時刻に決闘の約束をしてしまい銃士に憧れ、目指す。
 
 背景が、かっこいいからな。
 ゆえに吾輩は哲学者。
 
 ネコズミックにおいては。
 猫精霊のダルタニャンである。


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ほづみわたる
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