Body language(自発的言語)羽生結弦
我を忘れ、魂を揺さぶられる<絶対美>との出会いは、長い人生の中でそれほど多くはなかった。それらは殆どがクラシック音楽か、美術の分野で占められている。だが、予想だにし得なかった唐突な至福の出会いが、L.ベーリオ、M.ベジャールのボーボリ庭園での公演<Les Triomphes de Pétrarque ペテゥラルカの(愛と死の)勝利>等、そして羽生結弦の<氷上の舞い>の数々であることに、我ながら驚いている。それは、私の生来の<美>への憧れの貪欲さゆえのことであろう。
若かりし頃、私はフィギュアスケイトにそれ程興味を持ったことはなかった。それでも、このスポーツをこよなく愛していた友人宅に居合わせた折、半ば強制的にTVで観る羽目になり、B.ボイターノや美しいK.ヴィットなどの演技を友人の解説付きで鑑賞したり、少し時代が下ってからE.プルシェンコのE.マートンとの共演によるド派手な演技などは、ナルホドと意地悪く感心した。
しかし羽生結弦選手が登場し始めた前後のフィギュアスケイトには、まったくと言っていいほど興味がなかった。それは私自身、そのころ多忙を極め精神的に余裕が無かったせいで、TVで競技の中継放映があって偶然チラリと目にしても、おや、日本人にしては稀なプロポ―ションの美少年が居るな、程度の注目視でしかなかった。それにしても、あの頃彼が纏っていたコステゥームは、何というか、、、、、ことにソチオリンピックのロミオとジュリエットのコステウーム。羽生選手に肩入れしていたファッション関係の仕事をしていた知り合いのフランス人も「羽生はすべてに素晴らしい、コステゥーム以外は、、、、、」とため息をついた。
そのころ、私はヨーロッパに住んでいた。
長いヨーロッパ生活に終止符を打って、日本の田舎に隠遁生活をを送るようになった或る眠れぬ夜の退屈しのぎに、寝室のTVをつけた。その時、私の目に飛び込んできたのは、画面いっぱいに入魂の演技を繰り広げている羽生結弦選手の<SEIMEI>であった。それは私を無視し、容赦なく私の感性に爪を立てて喰いこんでくる。思わず私はベッドの上で居住まいを正した。体中の筋肉が異様に緊張しているのに気づく。そんなことは、スカラ座で出会ったMo.クライバー指揮、R.ワグナーの<トリスタンとイゾルデ>以来のことであった。
その夜、一睡もすることなく私は夜明けを迎えた。
「スケイトは僕の言葉です」と羽生は言う。
かつて、「パントマイムは自発的な言語である」と云ったのはパントマイムを理論づけたE.ドゥクルー(1898~1991)であった。人体を主な表現手段とするBody Language-Dramatique corporeal Mimeは、「見えないものを見えるようにする」とE.ドゥクルーは言う。 「Corporeal Mime=身体マイムは実践者が、独自の語彙を通じて最も実用的な側面からより抽象的で精神的な側面まで、演劇的に人間の行動を表現する方法を学ぶことを可能にする技術である。それは<思考体の芸術>である」と続く。
羽生結弦のShare Practiceを見ていると、彼の念入りな筋神経の細部にわたるエクササイズが、見事にE.ドゥクルーの<身体とその部分を分離、脱、再構成する>メトードに一致している。そして、それはやがて、J.L.バロー(1910~1994)に<Art de Mouvement=(動的)身体技法>として引き継がれ、<パントマイムの形は詩的な優雅さを欠いては存在しない>M.マルソー(1923~2007)に至る。
羽生結弦の演技は、魂の深淵から迸り出る深層意識の表出ではないか、と思われた。彼の身体はLogos の及ぶことのできない深層意識の媒体である、と、、、、。自らの意思感覚を瞬時に伝達し得るほどに鍛えられた肉体の細部に至る筋神経のMouvementを駆使して繰り広げられる動的空間は、もはや彼自身の意識を離れて深層意識に委ねられているかのようである。それ程細部にわたる筋神経は鍛えられている、ということであろうか。
時に、あたかも無造作に投げ出されたような腕の美しい動作の先端から、或いは重力を感じさせないステップの足の動きから、ある時は強靭でありながらフレキシブルな鋼のように見事な曲線を描く彼の身体のMouvementは、ある時は鋭い直線を、またある時は優雅な放物線を描きながら、波動のように素早く、そしてゆったりと空間に伝動し広がってゆく。それは真に<Dramatique Corporeal Mime 見えないものを見えるようにする>技である。
肉体の全ての細胞から放出される生命のエネルギーは三次元の壁を突き破り、彼の身体はBIG BANG直後のように重力から解放されて空間に舞上がる。氷上に刻まれたトレースが、たった今そこに繰り広げられていた<生ける美の創造>は幻ではなかった証しとして残され、それぞれの人々の肌への記憶となる。
夏石番矢氏の句(俳人、明大法学部教授)<氷上の禁域>羽生結弦
パリの散歩道 『星も人も高スピン 氷の首都』
『氷の上で 無極動の炎が手足か』
そして、それは真に伊藤若冲の《生命の輝き》を思い起こさせる。
スケイトは、羽生結弦の言葉=Body languageなのである。それを駆使して彼は時空を超えた現実、非現実の<生ける絶対美>の世界に我々を誘ってくれる。
M.Grazia T.
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