霧の宴 ミラノ Ⅲー3 クレリア夫人
*ファノにあるジュリア―ノ公爵の夏の館での生活。
クレリア夫人、ミラノの公爵邸での音楽会開設を願う。
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その年のファノの滞在も終わりに近づいたある日の午後、陽ざしが微かに秋の気配を感じさせる広い庭を散策しながら、クレリア夫人はマリアムに云った。
「ミラノに戻りましたら、貴女のご友人のドクトル モンティにご紹介頂けないかしら? 貴女のお話を伺ってから私、すっかり古くからのお知り合いのような気がしてなりませんの、ご迷惑かしら?」
「いいえ、少しも迷惑ではありません、喜んでご紹介いたします。でも、わたしの友人達は皆、何処か浮世離れしているところがありますから、驚かれると思いますが、、、、」
「あら、それは私も同じことですわ、何時か公爵が申しましたでしょう?
貴女も私も骨董品ですって、それに、そのような方々でなければ私、お知り合いになりたいとは思いませんもの。ポルディ ペッツオーリ美術館の、あの<嘆き>の前で、放心したように身動きもせず長い間見入っていらした貴女をお見掛けして、きっとこの方は私と同じ感動でこの絵を観ていらっしゃるのでは、と思いましたの。それで、勇気を出して声をお掛け致しました、私の感に間違いはありませんでしたわ」
確かにあの作品は、人物群のコンポディショの見事さも然ることながら、ミリアムの心の奥に深く語りかけてくる不思議な何かがあり、何度足を運んでもその謎を解く事が出来ず、毎回取りつかれた様に時を過ごすのであった。心の奥底に迫ってくるその<何か>は、息絶えたイエズスを膝にのせ、極限の苦悩に意識を失った聖母マリアを取り囲む人々の其々の悲しみの姿が、マリアムに十五世紀のデ メディチに起こった或る重大な悲劇を思い起こさせ、画面に描かれている人物像に、実在したデ メディチの人物たちを重ね、その悲劇を生々しく息づかせているように思えるのであった。
クレリア夫人と同じ感動を分かち合っているとは思えないのだが、目の前で得意げに優しい微笑みを浮かべている夫人を見ると、マリアムは黙って頷いて見せた。
「夫は私を骨董品だと申しますが、私はひそかに彼をミダス王と呼んでおりますの」と、ころころと夫人は笑った。その笑い声の心地よさと、公爵をミダス王に喩えた夫人の少し皮肉なユーモアに誘われて、思わずマリアムも声を立てて笑った。
「ええそうですわ、音楽の美しさを聴き取れない耳を持ったミダス王なのですよ彼は、、、」
「でも、パンのシュリンクスの素晴らしさを聴く耳を持っているのでは 」と、マリアムが混ぜ返すと
「それは、あの人が動物贔屓だからですわ」と、事も無げに言った。
どうやら夫人の頭の中では、公爵はミダス王になり牧神は単なる動物になってしまったのかと、マリアムは可笑しかった。
「何時かクジラのセレナーデの謎を公爵様がご説明くださいましたが、とても興味深く伺いました」
「貴女はご親切な方ですこと。夫はクジラの声の録音を収集しております。本当に妙な人ですわ。クジラの他にも、いろいろな動物たちの鳴き声の録音を所有しておりまして、彼の友人達は話題がそちらの方に向かいますと、急いで方向展開するのです」
マリアムはふと、公爵の穏やかに笑っている小さな青い丸い眼を思い浮かべた。
「この冬、公爵は南太平洋旅行を計画しております。その折に、アマゾンにも足を延ばすそうです。何ですか、空を飛ぶ蛇を観たいとおっしゃるの、それから、恐竜を小さくしたような爬虫類が生息している、何という島でしたか、、、、、」
「ガラパゴス諸島でしょうか?」
「そう、そちらにも渡ると申しております」
「奥様、太平洋には、とても魅力的な生き物たちが生息しております。例えば、胴体が太りすぎてしまった鳥が居りまして、いざ飛び立とうとすると、なかなか思うように浮力が付きません。そこでかなり長い助走をしなければならず、不器用に走り続けた結果失敗することも多いようです。浮力が十分でないと、前にいる仲間にドンと身体ごとぶつかったりして大騒ぎになります。それは、それは滑稽なシーンです」
「まあ!貴女までもがその様なことに興味を持たれるとは、、、、お願いですから、公爵にはそのお話はなさらないでくださいね。貴女が妙な鳥に興味をお持ちだと知ったら、彼は私から貴女を奪い取ってしまいますもの」
と言ってマリアムの肩に腕を回し、そっと自分の方に引き寄せた。
「公爵様が蛇の飛行に感心なさっている間に、、」と、悪戯っぽく、陰謀を企んでいる反逆者の様に急に声を潜めて
「ミラノの私共の家で、コンサートを開きたいと思いますの、、、」とマリアムの顔を覗き込むようにして云った。
「以前からそのようなお集まりをしたかったのです。夫も賛成してくれてはおりますが、彼が居ります時は、居心地の悪い思いをさせたくありませんので、控えておりましたの。何しろ彼はミダス王なのですから、、、。私共の親しいお知り合いの中にも、音楽愛好家が大勢いらっしゃいますし、実際に楽器を手になさる方々も少なくありません。
私の従兄弟はヴィオロンチェッロを弾きますが、クアルテットを組んでおりまして、時間が許す限り、毎週のようにお仲間が集まり、彼の家でアンサンブルを楽しんでおりますの。
その様な方々や、貴女のお友達をお招きして、内輪な楽しい夕べを過ごしたいと思うのですが、、、そのお集まりで私、貴女のお声を聴かせていただきたいの。ここでは、貴女はなかなか歌って下さらないのですもの、、、
貴女が此処にいらっしゃるようになってから、毎日曜日のミサを心待ちにしておりました。貴女のお声を聴きたいばかりにミサを心待ちにしているなどということが知れましたら、あの厳しい司祭様に叱られてしまいますね」と、悪戯っぽく肩をすぼめた。
公爵家の領地内にある古い礼拝堂での日曜日のミサで、公爵夫妻の要望に応えて、マリアムはいくつかの聖歌を歌うことになっていた。
その礼拝堂には、小規模ながらよく手入れされているパイプオルガンがあった。サヴォナローラの様な異相の、聖フランチェスコ派の司祭が十一時のミサにやって来て、供をして来る若い見習い僧がオルガンを弾いた。
公爵家の 紋章が背もたれに刻まれているベンチがずららりと並ぶ最前列に
夫妻は座っていたが、マリアムが聖歌隊の席で、フランクの<パニス アンジェリクス>やヴィアダーナの<優しきマリア>を歌う時に、クレリア夫人は、S.ボッティチェッリの聖母を想わせる美しい面を心持傾けて、優しい視線をマリアムに送るのであった。
つづく