美の求道者 羽生結弦
イタリア語にmagnetismo (マニェティズモ)という名詞がある。意味は、磁気、磁性、磁気現象、或いは魔力を持ったもの等々、、
2 0世紀後半、私の魂を鷲掴みにした芸術家がいた。Mo.カルロス クライベルである。Mo.C.クライベルの演奏は、Mo.H.vonカラヤンの演奏のように定義づけることは不可能であった。なぜなら、それは常に聴衆の想像の域を超越した熱狂の世界に引きずり込んで行くからである。聴衆は、ディオニソスの宴会で美酒に酔ったように、彼の魔力に熱狂した。この現象を生み出す彼の魂の芸術を、アテネ生まれのM.マテオポルスは、神聖な狂気 古代ギリシャ人達の言うenthusiasmos(神が乗り移るの意=オリンポスの神々に魅入られた)、ただ単にインスピレイションを受けたというのではなく、瞬時に神々に魂を支配されている、と表現している。
羽生結弦の最近の表現は、恐ろしいほどその<魔力>を増し、人間達は、その力に抗うことは不可能になった。こちらは、真にディオニソスの宴会の美酒に、心地よく酔っぱらってしまったようである。言うならば、彼の<飽くなき美の探究>が人間の限界を超えて、オリンポス山の神々に魅入られてしまうのではないか?
彼の<美>への探究心は、もはや真理に急迫する求道の域に達している、と私は思う。
アマチュア選手時代にも見せた異様に美しい演技の数々の中に、<hope &Legacy>のような現実の域を脱した作品があった。2017年のワールドカップのFSのあの何分間、羽生結弦の魂はその場には居なかったはずだ。
プロスケイターとなってからは、益々その傾向が強くなっている。彼が追い求める<美>は人間の限界を超え絶対地の域に突入し、もはや後戻りすることはできない、オリンポス山の神々が彼を見放さない限りは、、、
羽生結弦の芸術を堪能するために、我々は<ディオニソスの宴>に招かれていなければならない。そして、そこで振舞われる美酒の芳香を愛する感性を研ぎ澄ませていなければならない。何故なら、そこにしか<美>は存在しないからである。
<ディオニソスの宴>に招かれない輩たちは、場末のうらぶれた居酒屋の愚群の中で安酒を煽り、他者への中傷にうっぷんを晴らし、見苦しい自らの汚物の中に酔いつぶれてしまうであろう。
M.Grazia T.
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