霧の宴 ミラノ Ⅲー6 クレリア夫人
*9月、マリアムとアンドレアがジュリア―ノ公爵家のお茶に招かれる。
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本格的な秋の気配を感じさせる九月半ばになってから、マリアムはミラノに帰ってきた。長い間留守にすると、騒々しく車の往来する薄汚れたこの町も、何やら懐かしく感じられるのが不思議である。
スカラ座では既にコンサートのシーズンが始まっていたが、プログラムに目を通すと、未だこれと云って特別に興味をそそられる出し物は見当たらなかった。しかし、夏の間地方都市の観光客相手のオペラやバレエ、コンサートなどの催し物に比べれば、やはり質も内容もかなり充実してはいる。
いつになく華やいで弾んだ声の、公爵夫人から電話があった。
「あゝ、ようやくお帰りになったのね!私の方が先でしたわ。貴女のお帰りを心待ちにしておりましたのよ。今年は九月早々、ファノを引き上げましたの。貴女がお発ちになってから私、すっかり退屈してしまいましたし、公爵が例の南太平洋へ旅行の準備をなさるので、ミラノに戻らなければならなかったものですから、私も一緒に帰ってまいりました」
やがてマリアムの友人達も一人二人とミラノに戻り、そしてアンドレアから帰宅したという連絡が入った。
留守中に届いていた手紙には、この夏はカスティリオーネ オローナでずっと作曲の仕事をする、と書いてあった。
マリアムは、アンドレアをクレリア夫人に合わせる機会を作らなければならなかった。ファノ滞在中に、クレリア夫人にそう約束してあったからである。
過ぎ去ってゆく夏への思いを断ち切って、ミラノ人達は無味乾燥な都会の日常生活に戻り始めていた。
そしてある日の午後、マリアムはアンドレアと共に、ミラノ郊外にあるジュリア―ノ公爵家のお茶に招かれた。
それはファノの重厚な館とは異なり、遅咲きのバラが咲き乱れる庭に囲まれている瀟洒なヴェネト風の古い館であった。
夏の陽焼けが微かに残るほっそりとした面に柔らかな銀髪をふっくらと結い上げ、深紅のブラウス姿の夫人がにこやかに、自らマリアム達を玄関まで迎えに出てきた。
その午後のお茶の席には、小さな丸い青い目の公爵も同席した。従者の様に両脇に従う二匹の愛犬の頭を撫でながら、時々夫人が同意を促すと、公爵はフムフムと頷いていたが、やがて
「どうも音楽のことは、私には分かりませんので、皆さんがよろしいようになさったらいかがでしょうか?」と言った。
館はさほど大きくはなかったが、それでもサロンはかなり広く、貴族社会が健在であった二十世紀初頭までは舞踏会などが盛んに開かれていたようである。高い天井から壁にかけて植物をモティーフにした繊細な線描きのフレスコ画が施され、ルイ フィリップ調の家具が見事に調和している。
階上の住まいに続く階段の壁には、歴代の公爵家の人々の肖像画がかけられていたが、カイゼル髭を蓄えて厳格な表情の先代の公爵と今代とは、あまり似ていないようであった。
クレリア夫人とアンドレアは、マリアムが予想していたように、お互いに相通ずる何かをすぐに感じたようであった。和やかに親しみ深く旧知の親友の様に打ち解けて、多方面に渡る共通の話題に花が咲き、たいそう心地よい雰囲気が広間に漂っていた。
結局、公爵夫人が望んだサロンコンサートは、その冬アンドレアと従兄弟のエリアが主催する恒例のコンサートの一部を公爵家で催すということで、公爵の同意を得た。
「私はニケ月程旅に出ておりますが、マリアムが歌われるときは、私も出席したいと思いますので、そのようにスケジュールを組んでいただきたい」
「まあ、公爵が音楽会にお出ましになるとは、、、私共が結婚致しましてから初めてのことですわ!」とクレリア夫人は感歎した。
「いや、クレリア、私は音楽は分からないが、マリアムは私たち親しいお友達でしょう。それに、何よりも彼女の声は、私の耳に優しくて神経に触らない。昔、私を贔屓にしてくれた乳母が歌っていた子守歌を思い出させてくれる」
マリアムは、それが親切な公爵の彼女への最大の賛辞であろうと思ったが、少し笑いながら
「ご親切にありがとうございます、公爵様、ご期待を裏切らないように努力いたします」
「いやいや、ファノの家で歌って下さったような曲を聞かせてくださればよろしいのです。私は、あの歌がなかなか気に入りましたので」
そういえば、ファノに滞在中の或る雨の日の午後、退屈しのぎに
<Legendes Dorées>の中から数曲を、ピアノを弾きながらクレリア夫人のために歌ったのを、マリアムは思い出した。確かにあの時は、公爵も同席していたのであった。
<Legendes Doées>は、中世期のフランスで、イエズス クリストの生涯のエピソードを、文盲の民衆のために町の広場などで民衆劇として歌い演じられていたようである。イエズスの誕生の場面があり、生まれたばかりのイエズスへの子守歌で<ロバと牛にはさまれて、、、>という曲が、たいそう公爵の気に入りBis を所望されたのであった。
つづく
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