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【読書記録】津村記久子『まぬけなこよみ』【私は秋が好きです】

せっかく「四季」のある日本に生まれたというのに、その季節季節を感じきることなく、なんとなく日々を消費してしまっている気がします。
以前俳句を嗜んでいる方から、季語がたくさん載った本を頂いたことがありました。
「へぇ~」とパラパラめくった後、今は手放してしまいました。
日本人として、もっと知っておきたいことがそこには載っていたかもしれません。


こちらの本は、「季節のことば」をテーマに書かれたエッセイです。
同じものを見ても、感じることは人それぞれで、エッセイを読む楽しさはそこにあるのかな、と思います。

以下、印象に残った部分を引用します。

 もしかしたら、エアコンであらかじめ部屋を暖めておけば、そんなまぬけな前哨戦は必要ないのかもしれないけれども、どうもストーブがいいようなのである。ストーブを点け、着込んだうえで暖をとることは、面倒で時間を無駄にする部分もあるのだが、着込んでいるうちに自分を組み立てているような感じもする。その感覚が、なんとなく好きなのだろうと思う。おしまいまで着込むことで妙な達成感を得てしまったりもする。これは、他の季節にはないことだ。実際には着込んでいるだけなのに、頭は「いい仕事した」と思っている。おめでたいことこの上ない。

p.42 季節のことば「ストーブ」

 おにはそと、ふくはうち!やってますか?わたしはもう、三十年以上というような単位でやっていない。あの豆をあまりおいしいと思えないからかもしれないし、人に豆をぶつけてもべつにカタルシスを感じない体質なのかもしれない。豆がうまくない、というのは、豆まきの地位をあまり派手なものに確立できない一因のように思えるけれども、あれよりおいしくても、まこうという気にはならなそうなので考えものである。豆まきに抵抗がなかったとしても、一人ではできないのはよくない。豆まきには、豆をまく人、鬼をやってくれる人の最低二人が必要である。そして家庭の父親以外に、「豆まきがやりたいので鬼をやってくれ」と頼むのはかなり勇気がいる。けれども個人的に、鬼の役をやるのはやぶさかではないので、鬼を探している人は一声かけてほしい。

p.47 季節のことば「節分」

 群像劇、グルメ、家具(インテリア)、そして食器など、雛飾りは、イギリスのお屋敷ものミステリーのごとく、人の興味を引くものが凝縮されている。ないのはお屋敷そのものだけだといっても過言ではないだろう。ものすごく高度で高級なお人形遊びでもあるのかもしれない。家具の配置をやたらにいじってはいけないシルバニアファミリーのようでもあるし、中身だけのドールハウスであるともいえる。

p.67~68 季節のことば「雛祭り」

 ただ、ほぼ毎日何らかの作業を残している身になってみて、何だったんだ?という現象は、本当に良くないのだろうか、というようにも考える。個人的には、「意味のないことに耐えられない」という心の状況が、なんだか苦痛だ。(中略)何か微小なことでも、成果の出ることをやりたいのだ。だめだなあ、と思う。そういう時は、無性に電車に乗りたくなる。ひたすら景色が見たい。べつにいい景色じゃなくていい。流れていくものをただ眺めたいのだ。

p.112 季節のことば「ゴールデンウィーク」

 カビに対してそんなに激しい憎悪を持てないのは、カビには「見える」というわかりやすい特徴があるからかもしれない、と思う。(中略)まあ、不快な様子ではあるのだが、「おい、生えたぞ気を付けろよ」と見えることによってぶっきらぼうに注意喚起をしている、と考えられなくもない。そうすると、仕方ないな、と思えるのである。

p.148 季節のことば「カビ」

 わたしは、海沿いの田舎に住んでいた小学校低学年の頃から、漠然とした「夏のにおい」に頭をやられるという感覚を持っていて、夏は夏休みがあるし、海に遊びにいけるからうれしいんだけど、あのにおいだけはな、とずっと思っていたのだが、大人になって改めて、あの「夏のにおい」の半分ぐらいは、その辺の道端に咲いているオシロイバナが原因だったんだと気が付いた。残りの半分は、今も判明していないのだが、とにかく、堤防の傍らの、むらむらと名も知らぬ植物が自生しまくっている、大きな茂みのにおいがすごく苦手だった。その奥にだいたいエロ本が落ちているのも、おおっと思いつつ不気味だった。あれは本当に何だったんだろうか。

p.180~181 季節のことば「オシロイバナ」

 トマトが嫌い、という人は、やっぱりファーストコンタクトがあんまり良くないんじゃないかと思う。(中略)キャベツやきゅうりといったくせのない野菜の中で、トマトがあまりに目立ちすぎているのではないか。他の野菜を圧倒してしまう、酸っぱいわ赤いわ中ほどからはなんか緑の汁みたいなんが出てきてるわ、というトマト。これではあまりにも悪役然としている。(中略)これは、敵役ばっかりやっていた美人女優が主演を経て、物語には欠かせない「美人」という冠のはずれた女優になるのと同じなのではないかと思う。トマトよ、キャベツときゅうりの横で毒々しい異彩を放っていた頃から、ずいぶん遠くへ来たな。

p.184~185 季節のことば「トマト」

 それぞれの季節に良いところがあるけれども、気候は秋がいちばんありがたい。そのままじわじわと冬になるだけだからだ。春も悪くないけれども、忍び寄る夏の気配が恐ろしい。いやむしろ、夏はがぶり寄ると言ってもいい。夏は足音がでかいし声もでかい。夏だぞ!暑いぞ!照射するぞ!むしむしもするぞ!わしに備えろよ気を遣えよ!捕まえるぞ!どこに隠れても逃がさないぞ!ぐはははは!夏は嫌いを通り越して怖い。夏が人なら一生会いたくない。街ですれ違いそうになったら顔を伏せる。テレビに映ってもチャンネルを変える。

p.236~237 季節のことば「夜長」

 ミノムシになるかならないかは別としても、好きなものはふとん、という人はたくさんいらっしゃると思う。なんといっても、ふとんは電源がいらない。かぶっていたらだんだんあたたかくなってきて、眠ることができる。さまざまな快適に関する指標、道具はあれども、その中でも最高の一品であろうと思われる。ふとんを好きな人のことを何と称すればいいんだろうか。フトナー。フトニシャン。フトニスト。なんでもいいのだが、世の中の七割ぐらいの人はフトニシャンなんじゃないだろうか。

p.251~252 季節のことば「蓑虫」

「待つ」ことの楽しさが、大晦日には凝縮されている。たかが新しい年になるだけだ。三十数年も生きると、べつに新しい年になって何かが劇的に変わるということがないのも知っている。それでも、待つことそのものを味わうのだ。そんな不思議な瞬間は、一年のうちでそうないだろう。たいていは、何かの結果を待っている。それに一喜一憂する。しかし、新年を迎えることに優劣はない。誰にも平等に、新しい年はやって来る。来たら来たでめんどうなことはわかっている。それでも、新年は朝日が昇る瞬間のように輝いていることを誰もが知っていて、大晦日にはそれを待つ。

p.294 季節のことば「大晦日」



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