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第42回_うっすらとした願望_さっぱり分からん!「マラルメ詩集」感想_2024.12.1

片倉洸一の耽楽的音声記録
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年末までの読書資源として神保町で調達してきた4冊も最後の「マラルメ詩集」に差し掛かかったが、これが分からん分からん。読みも途上ながらなんとなくその意味不明さをやる気なく語ろうと思っていたら意外と熱くなってしまったという感じの回。冒頭には地元の人間関係を切り捨ててきた奴の身勝手な願望を述べてます。

1:薄く望む関係性
・遠い年末
・今の暮らしに不足してるもの―同窓生的な繋がり
・周囲の同窓生との関係―従兄、古情氏らはしっかりとある模様。
・片倉の願望―高校時代の約250人の同窓生とあの時間、空間についての記憶を共有したい…中学以前の地元の奴らはどうでもいい。
・片倉が高校時代の同窓生に関心を抱き、そのほとんどを知ったのは大学時代の暇な時にアルバムを見て初めて
・同窓会名簿の情報から垣間見えた高校生の地理的な格差―校外出た途端に公平など消え去る
・高校時代との意外過ぎる薄い接点―教育実習に行った時の教員の中に高校で同じクラスだった奴の親父さんがいたという。
・ネットで一切情報が追跡できない彼らほど愛おしい
・高校以前との繋がりの両極―のかぜ流の帰省の異常さ    兄貴、古情らの程々の接点    絶無の片倉

18分頃から
2:耽楽的即興感想「マラルメ詩集」(渡辺守章訳)
・まったく分からん
・音楽性と韻律が重要なはずの詩を日本語訳してる時点で本来のそれを感じるのは無理では
・そもそもマラルメ作品、そんなに象徴的じゃない。大作らしい「エロディアード 舞台」「半獣神の午後」の良さは全く分からない。
・「攻殻機動隊」2巻以来の意味不明さ
・あとがき、解説先行するも…石板刷りのバカ高い詩集を販売するも売れず、若い頃に劇場に詩を応募するも落選、専業詩人ではなく高校の英語教師だったなどなど。しかし詩の良さは分からず
・マラルメって一部の界隈から異常に評価されてるだけでは?―マラルメ全集が出版されたのはフランス以外では日本だけらしく、妙な研究熱はある模様。逆にその2か国程度でしか認知もないはずでは。
・鈴木慎太郎の訳の時代とそれ以降のマラルメ受容の変遷―難解な語彙による訳、音読などもってのほか→渡辺守章時代になると作曲家、演劇、ダンサー等と協力してより視聴覚的にマラルメを受容する時代に。
2010年に上演していた模様。
https://k-pac.org/events/3738/
・片倉の見解―詩は音楽性の点から受容しなければ本来の良さなんて理解できないのではないか。
・散文家としてのマラルメ―詩よりもよほど散文の方が残ってる模様。「ディヴァガシオン」という方法論の方が詩よりも方向性が明確。
「詩句という、幾つもの単語から一つの、トータルで新しく、国語に対しては異国のものの如くであり、呪術的な作用を持つかに見える言葉を作り直すものが、この日常語の切り離しを完成させる。」
→マラルメの目指す詩とは、語を日常的な用法における意味の偶然性を極力排除して、その詩だけの意味だけを持つような「絶対」的な語だけで構成されたものだったっぽい。その割には具象的で偶然性が多い気もするけど。

40分頃から
3:マラルメの朗読「蒼穹」
・全く分からない上、音楽性から理解するのが重要だという観点から素人の片倉が朗読してみる
・「蒼穹」―マラルメがやたらと乱用する語であり、そのタイトルそのままの詩は本人にとっても自信作だった模様。今のところ唯一面白いと思った作品。
・メタ的な詩を感じる一作―「詩が書けずに苦悩する詩人と、変わらず上空にあるだけの蒼穹」の構図。蒼穹に表象されるのは理想、無限、普遍…
・マラルメの「蒼穹」に通じるラッパーの表現例
1:8th wonder「反乱」―限界はここにはない 空にある
2:志人「自然生~何処へも行かず此処で踊れ」―答えは遥かなる空にはなく、お前の心の内にある
「詩が書けない詩」を描く8th wonderはマラルメの体現者?
「蒼穹」本文と影響関係を勝手にこじつけたラッパーの歌詞はこちら
https://note.com/brainy_azalea673/n/n7462e296d112

4:改めて、マラルメ
・やっぱりマラルメ持ち上げられすぎでは―一般人でマラルメが好きなんて人間がいるとは思えない。散文を読むには全集を買うしかないという点
・埴谷雄高の言及したマラルメ―「死霊」自序より
全てを言い切る一語への志向を語る。「マラルメ的願望」とは真理を一言で表現したい願望である。
・しかし、マラルメの詩が「絶対」を体現できてるようには見えない―むしろ優れた詩とは時代を越えて多様な意味の解釈ができるものなのではないか。マラルメ的な「純粋」を目指したところで出来るのはそれと正反対の、奇形的な詩なのではないか。それはそもそも詩である必要すらないのではないか。

結論―マラルメは詩の奇形を目指そうとした点が持ち上げられてるだけなのでは。

マラルメ愛好者の方々、片倉にマラルメの良さを教えてください。散文家としては面白そうですけど詩人としてはさっぱり分かりません。

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