オタクが行く!徳川美術館 人物編③
本日もお疲れ様です。緋星です。
今回は「覚えておくと徳川美術館が楽しめるようになるかもしれないし、個人的に紹介したい人物」編の第3回。
紹介する方はこちら。
徳川 光友
尾張徳川家2代目の殿様。
現在開催中の特別展でも大きく関わっておりますので、いいタイミングかなあ、と思いました。
人物紹介
まずはWikipediaの情報をまとめていきます。
徳川光友は尾張徳川家2代目当主です。
父は徳川義直、母は歓喜院(お尉の方)、異母妹に京姫がいます。
生没年は1625年(寛永2年)~元禄13年(1700年)、享年は76歳です。
幼名は五郎八もしくは五郎太。その後、光義→光友と改名しました。
通称は蔵人、出雲。号は源正公。字は子明。戒名は瑞龍院殿天蓮社順誉源正大居士です。
御簾中(正室)は霊仙院(千代姫)。側室は10人もしくは11人。
Wikipediaには“丹羽光重の娘”も側室に勘定されているのですが、この方は久勝院ではないかと思うんです。その場合頭を抱えることになるので、ざっくり10人くらいってことで(投げやり)。
実子も多く、加えて養子も迎えています。
ちょっとややこしいので、後でまとめておきます。
諱あれそれ
この記事では「光友」で統一していますが、これは諱になります。
諱にはいくつか意味があるのですが、今回は「生前の実名」という意味になります。
光友は1633年に最初の諱である「光義」を名乗ります。
「義」は父である義直から貰っています。
では「光」の由来は何かと言いますと、江戸幕府3代将軍・徳川家光です。
ある一族で同じ漢字が代々使われている場合、この字を通字と言います。で、通字ではない字は偏諱と言い、これを臣下や烏帽子子に与えることがあります。
家光と光友は従兄弟ではありますが、家光の方が格上です。そのため彼の偏諱である「光」を授かったということです。
なお、義直の死後である1672年、光義は諱を「光友」に改名しました。
千代姫との婚約・結婚
光友のエピソードとして外せないこと、それは千代姫との結婚です。
千代姫(1637年~1699年)徳川家光の長女です。光友から見れば従兄弟の子、従姪です。
ちなみに千代姫から見れば光友は従叔父と言うそうです。なるほど、複雑。
光友と千代姫は1638年に婚約しました。この時光友数え14歳、千代姫数え2歳。
1639年に2人正式に結婚、千代姫は尾張藩の市谷藩邸に輿入れしました。
……年齢のことは触れないでおきましょう。若紫も真っ青よ。
千代姫は婚礼に際して調度品を持参しています。この時の婚礼調度が、徳川美術館所用の国宝『初音の調度』です。
この『初音の調度』は定期的に入れ替わり、通年展示されています。
妻子一覧
先にも述べましたが、光友は正室の千代姫の他にも多数の側室がいました。
ここでは母子でまとめて紹介します。
実子
①千代姫(霊仙院/正室)
・綱誠(尾張徳川家3代目)
・豊姫
・松平義行(高須松平家祖)
・直姫
②勘解由小路(松寿院/側室)
・松平義昌(梁川松平家祖)
③勘式部(清心院、村尾氏/側室)
・松平康永
・貴姫
・仙之助
④新式部(長昌院、飯尾氏/側室)
・八郎太郎
・松平友重
・長尊(万之助と同一の説あり)
⑤伏屋(側室)
・秀姫
⑥糸(側室)
・能姫
⑦麗(聚福院、八尾氏/側室)
・万之助(長尊と同一の説あり)
⑧津連(正善院/側室)
・万里之助
⑨津知(大橋氏/側室)
・官之助
⑩梅の枝(梅香院、鈴木氏/側室)
・松平友著(川田窪松平家祖)
⑪以津(龍峰院、木村氏/側室)
・元姫
綱誠、義行、義昌の兄弟ですが、ちょっと複雑です。
公的には
長男:綱誠
次男:義行
三男:義昌
とされていますが、実際の生まれの順だと
長男:義昌(1651年)
次男:綱誠(1652年)
三男:義行(1656年)
になります。
これは母親の身分が影響していると思われます。
光友の子の場合、正室の子かつその中で先に生まれた綱誠が嫡男とされたのでしょう。
養子
光友は異母妹の京姫の娘のうち4人を養子としました。
・定姫
・智姫
・園姫
・清姫
先に述べた丹羽光重の娘ですが、この人が久勝院だった場合、夫は松平義昌になります。……息子の情報と混在しているな?
光友と寺院
光友は義直の菩提寺として1651年に建中寺を建立します。
また、1661年には母の歓喜院の菩提寺として大森寺を建立しました。この寺は当初江戸にありましたが、今は歓喜院の出身地である名古屋市守山区に移っています。
建中寺と大森寺は共に浄土宗であり、光友の墓は建中寺にあります。
大曽根屋敷と徳川園・徳川美術館
1693年、光友は家督を綱誠に譲り、隠居します。
その後1694年~1695年に大曽根に隠居所として屋敷を建造します。これを大曽根御屋敷(大曽根別邸)と呼びます。
1700年に光友が亡くなった後、別邸は尾張藩の家老に渡りました。
1889年、大曽根御屋敷は尾張徳川家の所有に戻り、邸宅となります。
1931年に尾張徳川家第19代当主である徳川義親は、大曾根御屋敷と庭園を名古屋市に寄贈します。
1932年に名古屋市は改修工事を行い、徳川園が開園。
そして1935年、大曽根御屋敷の敷地内に私設美術館が開館します。これが徳川美術館です。
徳川園は1945年の名古屋空襲により大部分が焼失し、その後は一般的な公園として利用されました。
2004年秋、徳川園は再度造営を行い、日本庭園として新たなスタートを切りました。
ポイント
徳川光友は徳川義直の長男で、尾張徳川家2代目の当主である。
将軍家光の偏諱を授かっている。
正室は家光の娘である千代姫。その婚礼調度が国宝『初音の調度』である。
父の菩提寺として建中寺を、母の菩提寺として大森寺を建立した。
隠居所である大曽根御屋敷の跡地に、現在徳川園・徳川美術館がある。
光友公、かなり徳川美術館に関係がある殿様でした。
この人が大曽根に屋敷を造らなかったら徳川園も徳川美術館も今の場所にはなかっただろうし、何より千代姫さまとご結婚してその調度品が現代まで残されていなかったら、我々は将軍家の姫君の婚礼道具の凄さがわからなかったと思います。
あと子どものところで触れた、母親の身分が子どもに影響している話ですが、個人で知る限り織田信長が似たようなことになっています(兄がいるけど本人が正妻の子なので嫡子になったとか、信雄と信孝の順番とか)。
興味のある人は調べてみるのもありかと思います。
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