オタクが行く!徳川美術館 人物編②
本日もお疲れ様です。緋星です。
今回は「覚えておくと徳川美術館が楽しめるようになるかもしれないし、個人的に紹介したい人物」編、第2回をお送りします。
今回はこちら。
徳川 義直
尾張藩初代藩主であり、尾張徳川家の祖。
徳川美術館にもこの方所用の品が多く残っています。
人物紹介
ここからWikipediaの情報をまとめていきます。
徳川義直は徳川家康の九男です。
母は相応院(お亀の方)で、同母兄に松平仙千代がいます。
お亀の方は家康の側室になる前に2回結婚・出産しており、竹腰正信と石川光忠が義直にとって異父兄になります。
生没年は1600年(慶長5年)~1650(慶安3年)です。享年は51歳。
Wikipediaには1601年誕生説も掲載されていますが、徳川美術館では1600年誕生としています。
幼名は五郎太丸(千々代丸説もあり)で義知→義利→義俊→義直と改名しました。字(本名以外の名前)は子敬、諡号(死後に贈られる名前)は源敬です。
妻は3人おり、正室は高源院(春姫)。側室は歓喜院(お尉の方)と貞松院(お佐井の方)。
子どもは歓喜院との間に光友(光義)、貞松院との間に京姫がいます。
ちょっと複雑なきょうだい関係
義直はきょうだい関係が少し複雑です。
まずは父方。家康は子どもが多く、男兄弟だけでも11人います。姉妹も含めればこれ以上、さらに養子も数多くいました。
きょうだい間の年齢差も大きく、例えば異母兄の徳川秀忠は21歳年上です。なお甥の家光は4歳年下です。
続いて母方。先にも書きましたが、義直の同母兄3人のうち2人は父親が異なります。
両親が同じ兄弟は松平仙千代だけですが、彼は慶長5年の春に亡くなります。義直が同年の晩秋以降に生まれているため、直接会うことはありませんでした。
尾張国(尾張藩)を治めるまで
松平忠吉の時にも書きましたが、義直は子どもがいなかった忠吉の遺領を継ぐ形で尾張国を拝領しています。
では、それ以前はどうしていたのか。
義直はまだ幼く、両親とともに駿府城で生活をしていました。
ですが幼年とは言え、そこは家康の息子。領地自体は与えられていました。1603年(慶長8年)に甲斐国甲府藩25万石を拝領しています。御年3歳でこれよ。ケタが違う。
1607年(慶長12年)に義直は尾張国清洲藩47万国に転封します。1610年(慶長15年)に家康は名古屋城を築城し、尾張の拠点を名古屋に移します。
実際に義直が尾張国に入国したのは1616年(元和2年)だそうです。
新しい世代の大名
義直は親世代の大名たちと決定的に異なる点があります。
それは“関ヶ原の戦いの後に生まれた”ということ。
義直は織田信長も豊臣秀吉も直接知りません。物心ついたときには父親は征夷大将軍の地位にあり、江戸に幕府を開いていました。
戦国時代のクライマックス、大坂冬の陣で義直は初陣を飾り、夏の陣で後詰として参陣しています。
この後、島原の乱が起こりますが、それから幕末に至るまで日本国内では大きな内戦は起きませんでした。
義直は戦国から平和な時代へ移行する、過渡期の大名だとも言えます。
家臣団
義直の家臣をちょっと紹介。
平岩親吉:傅役(教育係)であり附家老。義直の尾張入国と同時に犬山の地を与えられました。嫡子がおらず義直の実兄にあたる仙千代を養子としましたが夭逝、彼の代で大名としての平岩家は断絶しました。
渡辺守綱:附家老。義直の初陣である大坂の陣にも同行し、1620年(元和6年)に亡くなりました。実は大河ドラマ『どうする家康』の三河家臣団メンバーでは最も遅くまで生きた人でもあります。
竹腰正信:附家老。義直の異父兄で、彼の後見人に選ばれました。竹腰家は幕末までその役を担う家柄になります。
石川光忠:附家老。名古屋城城代で義直の異父兄。実父は豊臣秀吉の家臣で、関ヶ原の戦いでは西軍に属しました。曾孫の代に名字を石河に変えています。
成瀬正成:附家老。幼少期より家康に仕え、親吉没後に犬山の地を拝領しています。成瀬家も幕末まで尾張藩の附家老の家柄とされました。
ポイント
徳川義直は家康の九男で、尾張徳川家初代である。
関ヶ原の戦いより後に生まれた世代。
幼児期は両親と共に駿府城で生活。
異母兄の松平忠吉の領地を継いで尾張国を治める。
家臣団には異父兄や『どうする家康』登場の人物もいる。
義直は家康にたいへん可愛がられたそうで、家康の遺品も多く相続したようです。そのため、徳川美術館にも家康所用と伝わる物も保存されています。
なお、名古屋城にある金シャチ横丁の正門側は「義直ゾーン」という呼称がついています。初代藩主の名前はここでも見ることができます。定番の名古屋土産や老舗の食事処はこちらのゾーンにあるとのこと。
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