暴君殺しについての一考察
経済学部一年 竹内 康司
1人の偉大な政治指導者を殺害する個人的暴力は、いかにして正当化されるのか。この問題を考えるにあたって、参考資料を踏まえ、二つの側面からアプローチする。一つは古代ローマの著作物における「暴君誅殺」の合法性と、もう一つは「偉大な指導者」が「暴君」となりうる経緯についてだ。
まず、前者では、古代ギリシャ、ローマの著作家たちは、「暴君誅殺」は善きこと、「国王暗殺」は悪しきこと、と見なしていた。その背景には個人の権力濫用を抑制する目的がある。これは自由主義者の積極的義務の行使として考えられる。
さらに「暴君誅殺」は条件付きではあるが、キリスト教下でも公認されていた。聖トマス・アクィナスは、「暴君誅殺」の三条件を明示している。
第一に、殺されるべき人物は、かつて暴力をもって権力を簒奪した者であること。
第二に、彼は神の法および自然法を侵した者であり、かつその臣民の生命と道徳原理にとって脅威であること。
第三に、殺害以外にそれを匡正する手立てのないこと。
これに加えて、著者は第四の条件を推測した。
第四に、彼の死が、何らかのより好ましい事態をもたらすに違いないこと―すなわちそれが単なる「見せしめ」、あるいは懲罰ないし復讐としてなされるのではないこと(これは神のみがなしうる)。要するに、それが何らかの明白に現実的で人間的な匡正および改善を間違いなくもたらすこと。
上記の四条件を満たすような「指導者」の場合、「誅殺」対象としての大義名分が立つと言えるのだろう。また「暴君誅殺」が社会に有効性をもたらす時代とは、国家が一人の人物の個性に依存しているような状況である。現代社会においては、たとえば、民主制国家の場合、その政治体制は一人の指導者が死んでもなお持続するものであるから、「誅殺」が大きな転換をもたらすとは言えないだろう。つまり、古代ギリシャ、ローマのように絶対的な権力者が存在した時代には、体制変革の動力として「誅殺」が肯定化される状況だと言える。
次に「偉大な指導者」がなぜ暗殺者にとって、「暴君」となるのかについて考える。(時代は現代かつ民主制の国家において)大多数の人間に支持され、「偉大」という評価を得た指導者の影響力は大きいと仮定する。その影響力は、人々を希望に満ちた「新時代」へと運んでくれる理想の列車のように捉えられる。
ところが、新しい列車を走らせるためには、古い線路を刷新しなければならない。現時点では「旧線路」によって既得権益の恩恵を受ける人間が存在する。あるいは、「旧路線」に固執する人間は、そこに自らの存在意義を見出しているのかもしれない。彼らにとって「偉大な指導者」とは、「権益の侵害者」であり、彼の行動が支持されることは自分たちの経済活動の自由の否定、または存在意義の否定につながるのだ。
経済活動の自由の侵害が「誅殺」に発展するとはいささか飛躍した推論かもしれない。しかし、「労働」によって生産されたものが、「人間性」を表すというマルクス的な見地から考えてみれば、今まで自分たちが積み上げてきた「生産物」を否定されるということは、半生の否定ともつながる。他者の半生を否定する権利など誰も持ちようがないので、「偉大な指導者」が「正論」を主張しようとそれは、単純に受容できるものではない。
時間が経てば、状況が変化すると楽観的に考えられる人間ばかりが存在するわけではない。むしろ、否定された自尊心、自らの存在意義を永久に取り戻すことはできないと考える者も中にはいるだろう。
よって、「暗殺者」の視点から考えてみると、さきの三条件を満たしていないとしても、四条件目の「死が好ましい事態をもたらす」が適用されるはずだ。この場合の「好ましい事態」とは、自らの実存を脅かす者を抹消することで、新たな実存を手に入れる機会の実現である。すなわち、「暴君」の実存否定から相対的に自らを取り戻そうとするのだ。
自らの実存喪失と引き換えに到来した「新時代」に希望を見出せず、廃墟のように生きるよりかは、目下の不条理に対して自由意志を行使する。たとえ一瞬であったとしても、失われつつある(あるいは既に失われた)実存を取り戻すために、大多数の人間から見れば「凶行」と思われる「誅殺」へと走るのであろう。
著者の言葉を借りれば、「権力の最悪の濫用が個人的報復への恐怖によって制限されることもあるという、希望の象徴が暴君誅殺なのだ」ということになる。
例えば、あのガンジーでさえ、非暴力を唱えていたにも関わらず、そのスタンスがヒンドゥー原理主義者の反発を買ったため殺されてしまった。ガンジーは自らの理念を貫こうとした結果、忠実なヒンドゥー信者を抑圧してしまったと考えられる。暗殺者にとってはガンジーが実現を目指す社会に、自らは存在価値を見出せないと判断したのであろう。
全ての人間の権利を抑圧することなく、資源の配分を行うことが不可能な現実においては、「聖人」といえど、「暴君」たりうる素質をもつことになるのだ。
以上から、時代・状況の制限はあるが、「偉大な指導者」であっても「誅殺」が認められることになる。
参考文献
バーナード・クリック.1976.政治理論と実際の間2.Tokyo:みすず書房