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続・武士道とは何か

昨日の続き。

昨日の記事を書いている時、武士道と言えば大先輩である新渡戸稲造についても言及しないといけないよな、と感じたので概要を記載することにする。

昨年(2023/9/26)書いた「ノブレス・オリージュ」で教育者としての新渡戸について紹介したものの「武士道」については触れなかった。

新渡戸が"BUSHIDO The Soul of Japan"を英語で著したのが1899年のこと。
日本では翌年1900年に裳華房から翻刻されたという。

ベルギーのある法学者から「日本の学校には宗教教育がない。それにも関わらず一体どうやって道徳教育を授けるのか」と問われたことが契機となり新渡戸は本書を著した。この問いによって新渡戸自身が日本人としての道徳性の形成過程を顧みることとなり、その結果、自身の正邪善悪の観念は武士道の影響を受けていることに気付いた。

また
悲しいかな武士の徳、武士の誇り!鉦太鼓の響きをもって世に迎え入れられし道徳は、「将軍たち王たちの去る」とともに消え行かんとする運命にある。
と述べているように廃藩置県や廃刀令などで特権階級だった武士の時代は終わりを迎え、それに伴い、その根幹を支えてきた武士道精神も廃れていくことに懸念を抱いていた。

その一方で、新たな時代において支配的となっていく思想として功利主義と唯物主義をあげている。

功利主義および唯物主義に拮抗するに足る強力なる倫理体系はキリスト教あるのみであり、これに比すれば武士道は「煙れる亜麻」のごとくであることを告白せざるをえない。しかし救主はこれを消すことなく、これを煽いで焔となすと宣言した。

クエーカー信者だっ新渡戸は、救主(イエス・キリスト)に武士道の継承の望みをつなごうとした。

すなわち新渡戸にとってのキリスト教は「強力なる倫理体系」だったので、封建制の解体に伴い歴史的役割を終え、衰退の一途をたどる道徳的トラストだった武士道の儒教の仁や仏教の慈悲をキリスト教の隣人愛に止揚することを志向した。

現実の武士が社会的存在としては消滅したとしても、その理念やイデオロギーは実社会の様相を反映させながら生き続けるし、新渡戸はキリスト教という新たな切り口から「武士道」について再定義・言語化した点は刮目に値するだろう。

その点を踏まえて原典である"BUSHIDO The Soul of Japan"を再読したと思った。

今日も皆様にとって良い一日になりますように。

参考文献:新渡戸稲造「武士道」、俵木浩太郎「新・武士道論」

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竹内康司
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