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ε-δ(イプシロンデルタ)論法のイメージ例

大学数学の関所のひとつとして「ε-δ(イプシロンデルタ)論法」がある。
講義を受けても半数以上の学生が、概念をつかむことが難しいとされているものだ。(理学部数学科の専門的な微積、解析学で習うことが多い。)

僕も他学部履修で理学部数学科の微分積分を受講し、はじめてイプシロンデルタ論法に出会った時、ただひたすらノートに定義を写経して覚えようとした。

イプシロンデルタ論法による収束の定義

とりあえず頭で理解するより手を動かし定義を覚えることが大切だと担当の教授も話していた。

大学卒業後も趣味で数学の学習を続け、様々なテキストを読む中でイプシロンデルタ論法のイメージについてユニークなたとえがあったので以下に紹介する。

ウェーバーによるオペラ「魔弾の射手」に登場する魔弾は狙った的に必ず当たるという魔法の弾丸である。したがって、狙った的がどんなに離れていようが、あるいは、どんなに小さかろうが、魔弾は百発百中でその的を撃ち抜くのである。

数学の世界でも狙った的を上手く撃ち抜きたい場面がしばしば現れる。それは微分積分やその先でまなぶことになる解析学などで扱われる極限に関する議論である。ε-δ論法はこのような議論を厳密に行うために必要不可欠なものであり、「どんなにεを小さくとってもδを上手く選べば」という具合に議論を進める。それはあたかもどんな的であろうとも、その的を撃ち抜いてしまう魔弾のようでもある。

藤岡敦「手を動かしてまなぶε-δ論法」序文

ベートーヴェンの伝記を読むと、「永久の愛人」として有名なテレーゼという貴族の娘が出てくる。彼がこの娘に送ったいくつかの手紙の1つは、次のような文章で終わっている。

「あなたがどんなに私を愛してくださろうとも、私はそれ以上に、もっともっとあなたを愛します」 あなたのルートヴィッヒより

田島一郎「イプシロン-デルタ」p24

nをカギリナク大きくするとXnはaにカギリナク近づく

とするのを、ぼくは気に入らない。「カギリナク……スレバ」という日本語の表現がなにを意味するのか、ぼくにはよく理解できないのだ。カギリナクといった不確定なことが、条件や要請にはいっている文章でわかった気になれ、というのが無理ではないだろうか。

ぼくが愛用するのは、むしろドンドン主義である。

nをドンドン大きくするとXnはaにドンドン近づく

の方が、情景が浮かぶし、日本語としても少しはマシなのではないかと思う。

森毅「位相のこころ」p11~12

このように、収束の定義を、速さを考慮して書き直してみると、言い回しが近寄り難くなってしまうのは、どうしてなのだろうか。単に、考えている対象が数式という元々馴染みの薄いものだからではなかろうか。実は、私達は日頃この種の言い回しや操作を、日常的に使っているのである。

例えば、カメラやプロジェクターを使うときに、焦点を合わせるために、何気なくレンズを調整するし、さらにピントの合った画面が必要であれば、レンズをさらにきめ細かく微調整すればよいことを知っている。

収束の定義は、まさしく、このような操作を、文章にしただけである。

つまり、εという精度を満たすためには、どの程度に微調整すればよいかの部分がn(あるいは、後に出てくるδ)を探すことに対応している。

カメラやプロジェクターでも、マニュアルを読んだからといって、すぐに機械操作に慣れるわけではない。やはり、すこし使ってみなければ上達はしない。
ε-δ論法もその点は同じである。

中神祥臣「ε-δ論法再入門」 SCGライブラリ71(サイエンス社)

どの表現がしっくりきただろうか?
この他にもユニークなたとえがあれば是非とも紹介して頂きたい。

今日も皆様にとってよい一日でありますように。

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