ちっちゃな ちっちゃな ちっちゃな ちっちゃな 我が人生(あの場所)
子どもの頃から度々訪れていた場所へ記憶を頼りに行ってみた。
車は便利だ。とんでもない暑さの中でも冷房を効かせて座ったままガソリンの燃料で、思いの場所へ意のまま自分を現実に連れて行くことができる。
昔は、家族の車だったり、またはバスだったり電車だったりして降りたら徒歩で歩いた。
個人的に意味のある場所である。自分が誰かに育てられたという幼き人間としての記憶が付いている。
記憶のランドマークは細いバス通りの角にある小さな神社だ。確かに神社はそのままあった。遠い昔はこの辺りのほとんどが田園であったと思われる。その昔からこの神社はこの辻の交差点にあったのだと思う。神社は、系列の本社の地点に向けて作られたのだろうと思える。地区の古い歴史を感じる。
幼かった頃の私には、この辺りには辻沿いに住宅や小さな商店が並び、全てが大きく見えた。大人も大きく見えた。たまに、夢に登場した。
思い出の家があったあたりは幾つも建て替わっていたが、区画や道路の様子はそのままだった。
私はここに記憶と思い出があるが、その家も、共に過ごした人々も、もういない。
今は、見知らぬ人たちの大事な生活の場所である。
不思議な感覚になる。それは記憶と今生きている実感の隔たりが私を刺激するのだ。
“それでも私は生きている”
ーーその意味は?
ーー意味なんて分からない。ただこうして生きているということをのみ複雑に交錯する感覚をそのままに受容することが、今の私を健やかに生かせるのだと思う。
サレンダーかもしれない。