【PODCAST書き起し】精神分析家でアマチュア落語家の藤山直樹さんに聴いてみた 1、著書「落語の国の精神分析」について
【PODCAST書き起し】精神分析家でアマチュア落語家の藤山直樹さんに聴いてみた 1、著書「落語の国の精神分析」について
【山下】皆さんこんにちは。「集まれ伝統芸能部」のお時間です。
今日は「落語講談、おあとがよろしいようで」の落語の会に精神分析家の藤山先生に来ていただきました。よろしくお願いします。
【藤山】よろしくお願いします。
【山下】そしてレギュラーのうちの会社の同僚でもあります三浦さんです。よろしくお願いします。
【三浦】三浦ですよろしくお願いいたします。
【山下】そして今日メインでMCをしていただく放送作家の和田さんです。
【和田】はい。和田尚久です。よろしくお願いします。
【山下】では和田さんよろしくお願いします。
【和田】はい。今日お客さまにお招きしているのは藤山直樹先生で、肩書としては精神分析家。
【藤山】はいそうです。
【和田】どういうことですか? 精神分析。
【藤山】精神分析はあまり医者と関係ないので。
【和田】あ、そうなんですか。
【藤山】医者じゃなくてもなれるので。日本ではよく精神分析医と訳されるけどそういう英語はないんですよ。サイコアナリストですから。
【三浦】サイコアナリスト。
【藤山】精神分析家です。
【和田】それで精神分析家であり、今見たらこれ2012年なんですけれども、藤山先生は2012年にみすず書房から『落語の国の精神分析』という本を出されていますけれども、私も出てすぐ読みました。偶然なんですけれども共同通信からそのとき書評を書いてくださいと言われまして書いた記憶があります。
共同通信というところに書くと新聞何十紙にも出るんですよ。いろんな地方紙に。
【藤山】本当にありがとうございます。
【和田】いえいえ、ありがとうございます。なので、読んだの10年前なので結構忘れてしまっている部分もあるんですけれどもすごく面白い本だったというのは記憶にありまして。
どういうことですかね、落語の演目を取り上げてそこに入ってくる人物像とかそういうのをアプローチされたという理解でよろしいんですか?
【藤山】それと落語という……最初の章なんかは落語というものは、落語をするというのはどんなもん、人間のありようというのはどんなもんなんだろうかと。僕は分析家をやってるんだけれども分析家の仕事と何かつながっているような気がする。これも手前味噌なんだけどそういうふうなことを考えたりとかしましたね。
人間の心が分裂しているありさまというものを具体的に表しているような落語ってそういう感じですもんね。2人の人がお互いのことを知らないかのごとくしゃべるという話で、そこにフレッシュな断面があるところが面白いというか、それが面白いんだけど。
人間が自分が自分をだましているとか自分が自分をごまかしているとか自分が自分の一部を知らないふりしてるとかというような感じの姿に見えるようなところが面白いなと思ってますね。落語というのは。
海外の漫談みたいなものがあるじゃないですか? スタンダップ。ああいうのって一人芝居的ではないじゃないですか。語りじゃないですか。
【和田】はい。
【藤山】でも落語は基本がそこに地の文がほとんどなく、講談みたいに地の文だらけではなくほとんど会話だけで成立させていくという形式がすごく面白いと思ってるんですよね。そういうようなことも書いたような気がしますね。
【和田】確か僕その書評に、例えば演劇での場合なんですけれども、ハムレットを演じる何の何べえがいいという言い方があると思うんですね。リア王を演じる仲代達矢はすばらしいねみたいな言い方があると思うんですね。
でも落語の場合はそういう言い方をまずしないんです。談志の『らくだ』はいいね、志ん朝の『居残り』はいいねてなことを言うんですよ。
【三浦】演目が先にいかないということですね。
【和田】いかないんです。
【藤山】そうね。『らくだ』の談志はいいねとは言わないね。
【和田】言わないですよね。僕そこを書いた記憶があるんですよ。というのは、僕はそういう内容をおそらくこの本から受け取ったんだろうなって。その演者の、今のお話で言うと普通じゃない感じをまず受け止めてそれを演目よりもそっちが先に来ているのが落語なのかなっていう。
【藤山】確かに演目自体も、要するに落語の演目って作者がいないわけじゃないですか。いるのもちょっとあるけど。それはある種のフォークロアみたいなもので。そこにはやはり民族の意識というのが出てくるわけで。
『らくだ』なんてとんでもない話ですもんね。死体というものをどういうふうに人は扱うのだろうかみたいなことをさまざまな角度で見せてくれている気持ち悪い面白い話ですよね。
だからそういうところまで江戸の庶民はいくというかなんていうのか、テレビでそんなドラマやったらばかじゃないかって言う。
【三浦】おそらく放送されないですよね。
【藤山】ただ、喋ってるからいいんであんなもの死体がずっとあっても面白くないと思うけど。死だけでもそうだけど死体が出てくる話はいっぱいあるじゃないですか。『粗忽長屋』とか。ああいう僕たちがごまかしてしまっている死とか。
だって葬儀場、葬儀屋がばっと来て死を囲い込んでしまうじゃないですか。ああいう感じじゃなくてむき出しに死があっていつ死ぬか分からないとか。ちょっとした、だって赤痢だのコレラなんかがあったらぶわっとみんな死んでしまう。今のこのコロナなんかみんなびくびくしてるけどほとんど死んでないのにこんなになぜびくびくしてるんだろうと僕には分からないんだけど。
とにかくそういういつ死ぬか分からないし、いつ火事になるか分からないしみたいな世界の中で生きてた人たちのフォークロアなんでね。
そういうところがなんかいいですよね。生き生きとしているというか生でね。そういう面白みも人間の業と談志師匠は言いましたけどね。
だけど人間の生きるということはどんなことなのかということを、落語の演目は教えてくれているような気がしたというのもとてもこの本を書きたくなっちゃって。
そこは精神分析だってそこに行こうとしてるようなプラクティスなんで、やはりどうしても世界で落語が一番好きな精神分析家は俺だと思ってます。それで俺しか落語をやってる精神分析家はいないんじゃないかと思ったから俺しか書けないんじゃないかと思って。
そういうのぼせ上った気持ちでじわっと書いてしまったものなんですよこれ。連載して。これ結構評価されて。
【和田】これ何か賞取られましたよね?
【藤山】取ってないんですよ。
【和田】そうでしたっけ?
【藤山】東京大学の現代国語の入試問題に出たんですよ。
【三浦】そうなんですね。
【藤山】それからある年の大晦日の天声人語の最後のところに引用してもらったんですよ。
【三浦】面白かったところ『芝浜』ですか?
【藤山】いやそうじゃないですね。とにかく何か引用させてもらったんですよ。しかもそこのところは僕が書いたことは書いたんだけど編集者が「ここ駄目ですよ、もっと強く何か書いてくださいよ先生!」「もっと書くの? んーじゃあ書くよ、書きゃいいんだろう」とかって言って書いたところが引用されたんです。
【和田】じゃあ名編集者ということですね。
【藤山】そうだね、小川さんのおかげです。でもまあそういう思い出を作ってくれたのも。
僕ってほとんど一般の人が読むような本って書いてないので、これしか書いてないから。世の中で別に全然知られていない人なんですけど。
あと今度、寿司屋の本を書こうと思って。みすずに連載したのを集めて書こうと思ってるんですけど。
なんでも精神分析家でというのはある種の道具としては面白いんですよね。ものを見る道具としては。
【和田】この本で紹介分析されている演目が『らくだ』『芝浜』『よかちょろ』『文七元結』『粗忽長屋』『明烏』『寝床』『居残り佐平次』というあたりなんですけれども。
【藤山】そうね。
【和田】先生のお話ですごく今、伺ってるだけで興味が僕はシンクロするのは、落語の速記本って明治以降しかないんです。明治20年代くらいからしかないんです。
【三浦】それは速記ができるようになって以降ということですか?
【和田】そう。速記術というのが日本に入ってきて。それは帝国議会を作るときにどうも速記というものが西洋にはあるらしいと。
【三浦】なるほど、海外には、西洋には。
【和田】速記ってやらなきゃまずいんじゃないかなと言って英語の速記術というものを学んだんですよ。その術が先に来てこれの使い道がないかという。もちろん帝国議会で速記するんだけど。そのときに落語というものを写してみたら面白いんじゃないのということで。
【藤山】広がった。
【和田】圓朝の作品が第1号なんですけど。ただ先生の話でやはりすごくうなずける部分があるのは。例えば江戸時代の歌舞伎の演目というのは長唄の本とかお能でも謡いの本ってあるんですよ。
【三浦】そうですね。
【和田】あるんですよ。だから本気出せば別に江戸時代だって落語の記録を作りたければ作れたはずなの。だって書物はあるんだから。
【藤山】そうだね。
【和田】それがないということはなぜかというと、たぶんこれはフォークロアなんだと。そういうふうに固定化するもんじゃないんだというみんなの無言の共通理解があったと思うんですよ。
【三浦】口伝で全部伝わっていって。
【和田】そう。それに文字のものじゃないという何か固定化しない……。
【三浦】要はテキストなくみんな話していると。
【和田】話しているし聞く側も。
【藤山】稽古だって師匠が一回しゃべってそれを覚えて覚えたやつをもう1回やって、いいよと言われたらやっていいみたいなシステムでしょ? 今でもそうだけど。
今は別にCDやDVDを見ればいいようなもののそういうことしちゃいけないんですよね。一応弟子は誰かに教わらないといけないんですよ。だからね。
【三浦】直接教わらないといけない。
【和田】あと『芝浜』という話をみんないろいろと論じるというか芸談が多い話なんですけれども。私ぜひ藤山さんの……先生じゃなくていいですね?
【藤山】藤山さんでいいですよ。もう先生とかじゃないですもん。
【和田】藤山さんにご意見を伺いたいことがあって。アメリカ映画でポール・ニューマンが出た『評決』という映画があるんですよ。
【三浦】『評決』。
【藤山】ありましたね。見てないですけど。
【和田】どういうのかと言うと、ものすごく妻にも逃げられて駄目弁護士がいるの。駄目弁護士がいつもお酒を飲んでて、もうネクタイとかもちゃんと締められないような感じでバーみたいなところにいて。仕事と言ったらお葬式があったときに知り合いみたいな顔をして乗り込んでいって遺産を分けるのを、簡単な仕事ですよ。それを無理矢理もらって弁護士だから手数料みたいなので。
【三浦】無理矢理行って?
【和田】無理矢理というかだから知り合いみたいな感じで葬儀場に行っちゃうわけ。
【藤山】そこでやっちゃうわけですね。
【三浦】呼ばれてもいないのに。
【藤山】とりあえずおこぼれで生きているような。
【和田】というようなやつなんですよ。だけどそいつがあるきっかけで医療裁判の案件がたまたまきちゃって。いつもだったらそんなの自分がマジでやるんじゃないんだけどあるきっかけでその事件に本気で取り組むわけ。
で、俺、毎日この過ごし方じゃ駄目だと言って自分で目が覚めるわけです。話の途中から。
【藤山】すごいねそれ。
【和田】ただそれでその裁判にいろんな努力をして証言者がいないのに連れてきたりとかやるという話なんだけど。僕その話すごく面白いのは「俺この事件に本気で取り組むぞ」となったあともその人はお酒を飲むわけ。つまり禁酒しないんですよ。
そこから僕が逆に分かったのは、日本って『芝浜』に代表されるんだけど、禁酒します、それがすばらしい、ゆえに立ち直ったという流れになるわけ。
で、『評決』は途中から本人心を入れ替えて「俺、弁護士やるぞ」となるんだけど別にそのあともビールも普通に飲むんですよ。禁酒のお話にならないの。それ僕結構面白いなと。
【藤山】ウイスキーは飲まないんじゃない?
【和田】そうかもしれないです。
【藤山】あの人たちはビールは酒だと思ってないでしょう。
【和田】それでフォークロア的に言うとこの違いってどうお考えになられますか?
【藤山】いやだからそれを書いたときに僕は精神科医としての視点とか分析家、心の臨床をやっている人の視点からするとアル中というのは一番難しい病気だから。
落語ってアル中とギャンブル依存の人がやたら出てくるわけじゃないですか。『文七元結』はギャンブル依存が治った、まああれは治ったのかもしれないけどなんか知らんけど。だけどアル中は一応治ったみたいな感じじゃないですか。1年……。
あんなのなんで治るのかって。普通治らないでしょう。
アル中が治るのはものすごく難しいことなので。
だからそれがどうしてなのかと言ったときに奥さんという人とのかかわりの中であの人が動いたんだということを談志だけが割とその本質を掴んでいるような気がしたんです。
だって普通だと手のいい……結局奥さんがうまいこと手名付けてやったような感じになるけど、あれはぶつかり合っている夫婦がとうとう「ああこいつがそんなことするわけないんだ」と言って心を入れ替えるみたいな感じで本人がぐっと変化するというところを一応捉えているんですよ。
でもなかなか説得力があるなと思って、そこがやはり面白いと思ってそこを書いたんだけれども。だけどなんて言うか普通治らないですからね。
やはり海外でも基本的には。アルコールの治療って海外の場合は断酒会というようなものに近いAAというものがありますね。
そのAAに行くと、よくアメリカの探偵小説とかハードボイルドとかでAAに行くシーンはありますけど、AAに行って俺たちは酒からは無力だ、酒に対しては無力なんだ。神とは言わないんだけど上部のものに自分は委ねるしかないんだというふうなことをみんなで唱えて。あとを1人1人がただ単に酒にまつわる思い出話だけをしてはいさようならという。その会をずっとやっていき続けるとやめられるみたいなのがあるんですよ。AAという。
だからやはりあれでもまず「もうやめる」というところを決断するしかないんだというところからしかスタートできないとは思いますよ。
決断してもまたぽろっと飲んじゃう、でもまた戻ってくるということを。ぽろっと飲んじゃうことをスリップと言うんだけどスリップしてはまた戻るスリップしてはまた治療に戻るとかドライなところに戻るということを繰り返して、だんだんスリップになるまでの期間が長くなっていってとうとう何年もスリップしなくなるみたいな感じで治っていくわけですけどなかなか治らないわけだから。
あんなに奥さんとの関係が一発で良くなるという夢のような話を書いていて素敵だなと思いましたけど嘘ですよね。嘘があるなと思いました。
嘘というかもちろん談志がやれば「おお、なるほどね」と思ってなんか元気になるような、いやでもなんか人間て、こんなもんだと思うような感じにはなるんだけど。精神科医ってそういう人をいっぱい見てるって、本当に難しい人たちだと思っているので。
頭が良くて全部分かってます、でも俺は酒をやめませんから、酒はやめませんけど例えばこのところの不眠だけ治療してくださいねとか言われて。はい分りました不眠だけ治療しますけどと、ちょっとだけやめませんか? とか言いながら付き合ってもう6年みたいな人いっぱいいますからね。
お酒の治療はしません、飲みますから。飲んでる間、たぶんそういう人は鬱とか治らないんですよ。
【三浦】そういう人はお酒も原因だったりするんですか?
【藤山】原因なんでしょうかね、途中からものすごく飲む人も。今頭にぽっとある人だったら、アルコール度数9%の500mlを毎日10缶ずつ飲んでるんですよ。
【三浦】それは完全に依存してます。
【藤山】それでその人が時々がーんと鬱になって死にたくなるけどなんとかということを何年も繰り返してるんだけど。
【和田】そういうふうに例えば9%のを10缶飲んでしまう人というのは、そこに至るつまり酒でごまかしたい何かがあったということなんですか?
【藤山】まあそうでしょうね。抑うつというか悲しいというか。彼は奥さんに裏切られてますよね。本質的なところ、深いところでは。で、去られてるわけだけどすごい憤りがあると思うけどそういうことを考えたくないんでしょう。考えたくなくてできるだけ空白にしたいんでしょうね。
【三浦】酔うということによって。
【藤山】肝機能なんかめっちゃ悪いから自殺してるようなもんですよね。非常にスローな自殺。
【三浦】緩慢なる自殺。
【藤山】なんですよね。アルコール依存。
【和田】上方の落語家でその台本がベリーベストとは別に思わないけど、なんで『芝浜』の主人公の魚屋が酒浸りになったかと言うのを自分で作って付けてる人もいますね。
【藤山】そうなんだ。
【三浦】前段。
【和田】前段のシーンがあるというか昔語りみたいな中で。
【三浦】枕みたいな感じ?
【和田】いやいや。
【藤山】途中でこんなことがあったから飲むようになったみたいな台詞があるということ?
【和田】そう。だからこいつが酒浸りになってるのはなんとなくじゃなくて一応辛い何かがあったんだという設定をね。
【藤山】それはあんまり好きじゃないな。
【和田】ちょっと理に詰んだやり方ですよね。
【藤山】ちょっと理屈になってるんだ。別に何かそれほどのことがなくてもアル中になるやつはなるしね。要するにアルコール依存とか薬物依存ってほとんどの人は本当にお酒が好きという人は少ないですよね。
【和田】あ、そうですか?
【藤山】お酒が好きで飲んでる人はアル中にはなりづらいわけで。やはり寝るために飲むとか忘れるために飲むとか、飲んで酔ってないとやってられないみたいな感じで飲んでるうちにだんだん脳みそがその量じゃあ酔わなくなっちゃうから、生物学的にどんどん増えていっちゃってというふうにもなっちゃうわけでしょう。
だから本当に酒を愛して……モルヒネ中毒なんかもモルヒネを愛してる人なんていないわけですよ。
だから薬物中毒というのは愛なきクレービングというか求めるんだけど愛はないという世界ですよね。全ての依存がそうだけど。
ギャンブル依存の人だってギャンブルが楽しくてわくわくしながらやってるような人だったら。
僕の友達にもいるけど競馬で毎回毎週1500円しか使わないんだけど、ものすごく大好きでこんなノート作ってて何十年も統計とってるやついるけど、そういうような人は本当のギャンブル依存じゃなくて単なるゲームの好きな人ですよね。
ギャンブル依存の人は結局取ったものを取り返してやるとか言って絶対無理なことで取り返そうとしては全財産をつぎ込むみたいな、『文七元結』の人はそうだけど。
【和田】はいはい。
【藤山】勝ったときの快感とか、そういうものにしがみつくみたいな。ああいうとっても「うつろ」なんですよね。でも強烈だけど「うつろ」な快感とかそういうものなんだと思うので。
transcribed by ブラインドライターズ<http://blindwriters.co.jp/>
担当:角川よりこ
いつもご依頼をいただきまして誠にありがとうございます。
今回は笑いとは違った一面の落語の世界のお話に、とても興味深く拝聴いたしました。
昔も今も依存や中毒という悩みがあり、そのことを表現されている落語がいくつもあることを知りとても勉強になりました。
またこれからも伝統芸能のお話をお聞きできますことを楽しみにしております。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。