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考え事#9反転の反転
今日は、自分のことについて書こうと思います。自分に向けて書くことになると思うので、かなりぐちゃぐちゃな内容になると思います。あんまり自信がないですが、今の自分に必要な事のように感じるので。
この1年で自分に起こったことを俯瞰してみる
ちょうどnoteを書き始めて1年くらいが経過しました。大して継続的な取組みにはなっていないのですが、細々と続けています。何かを発信する時にはペルソナが必要だ、なんて言いますが、書いたことを読み返すともともとペルソナが自分自身だったような気がしてなりません。
この1年、目まぐるしい数の現象に出会いました。
その現象の中でとてつもなく沢山の"怒り"という感情を自分の内側に感じました。2020年3月~2021年5月というのは僕にとって「怒りの期間」といえます。学校の休校にはじまり、オンライン授業の模索、Blended Learningとの出会い、授業の反転化、それに伴う様々な葛藤、学校という組織の動きにくさと面白さ、初めての書籍執筆、テレビで授業の取材を受ける機会もいただきました。そして最近は再びオンライン授業の模索をしています。
2020年の夏、物理の授業を反転授業やPBL形式で行っている人が身の回りにいなかったため、オンライン上で情報収集を始めました。コロナ禍で久しぶりにFacebookを連日開くようになり、そこで教育に関する様々な情報を得るようになりました。
僕が連日心の拠り所にしているグループは2つあります。1つは「名物教師育成プログラム」と呼ばれるグループ。もう1つは、「反転授業の研究」と呼ばれるグループです。
ちょうど1年前のいまごろ、半年でYoutubeに授業動画を190本近くアップロードしました。すべてはここが転換点でした。いままでずっと「学校」という狭い環境で蓄えてきた知識や経験を、一気に世の中に放出してみた形です。その動きを見つけて拾いあげてくれたのが、「名物教師育成プログラム」の発起人の先生でした。このグループの中には尖った感じの先生がたくさん在籍しており、自分もこのまま突き進んでいいんだな、という何ともいえない安心感を覚えました。この経験を足掛かりに、様々なFacebookグループをサーフィンしてはとりあえず所属してみるような、アンテナを張る作業を一時期とても熱心に行っていたと記憶しています。
僕が興味を持ったのは「How To」を目的としたグループではなく、もっと哲学的な内容を取り扱うグループだったのだ、といまになって感じます。
ともかく、様々な情報を学校外から得ながら、今の自分に必要なことを手探りでもがいていた、いまでももがいている感覚です。
そもそも、原動力は「学校はこのままでいいのか?」という問いです。
先生という立場ではありますが、いまの社会構造の変化と、学校の慣性との歪みが怖くてたまらない、というのが本音です。ちょうどブラックホールに飲み込まれるときに起こるスパゲティ化現象みたいなことが、いま学校というシステムに起こりつつあるのだと感じています。数年前までは、そろそろ飲み込まれる、という感覚でしたが、いまではもう、シュヴァルツシルト半径の内側にいる実感があります。飲み込まれながら時空が伸びていく、きっとブラックホールに落ちるっていうのはこんな感覚なんだろうと想像します。今から変化していかないと、いつかなんの準備もないまま引き裂かれてしまう!という危機感を自分だけが感じているような気がして、そのギャップに怒りを感じているのだと思います。
反転授業の研究グループの再起動フェスへの参加
上で述べたように、張り巡らせておいたアンテナの一つから、2021年の年明けに急に信号が届きました。あまり活動が見えなかったグループの1つ「反転授業の研究」グループで「再起動フェス」なるものを行うとのこと。よくわからなかったのですが、このグループの発起人である田原真人さんの、テキストベースでの呼びかけに何ともいえない魅力を感じて、恐る恐る参加してみました。あれからまだ数カ月しか経っていないことに驚きを感じるほど、現在様々な「今まで知らなかった情報」が自分の頭の中に根付いていることに気付き、いまこの文章を書いているのだな、なんてことにまさに今気づきました。
「反転授業の研究」グループは、教室内における狭義の反転授業という手法ではなく、「様々なものの反転(パラダイムシフト)」というものがテーマとなるグループでした。もともとの目的は狭義の反転授業について学ぶことだったようですが、それが発展していまの形になったのだと理解しています。
いま、僕の中に整理されている情報はここまでですので、論理的に書けるのはここまでです。ここからはかなりカオスな内容となります。ところどころに出てくるよくわからない言葉がありましたら、きっとそれは田原さんの著書、「出現する参加型社会」に全て書かれていることです。今後の社会を憂うすべての人が読むべき本だと直感します。勇気が湧いてくる本です。
自分の中のカオスを吐き出してみる
さて、ここからは自分の独り言なので、である調になることを先にお断りします。同じ人間が書いていますが、ここまでは「大人」の部分が書いた文章です。ここからは僕の「子供」の部分が書いていきます。
「現代の社会構造に対する怒り」がまず最初に自分の中に、ある。
いつこの怒りに出会ったのか、考えてみると、「ゆとり教育の失敗」という話を聞いた時な気がする。当時は高校生だった。個人的にゆとり教育という環境はとても楽しかったし、学校の勉強だけでなく、習い事でピアノを長いこと続けたり、部活で剣道に打ち込んだり、様々な体験をすることができて、とても充実した日々を送らせてもらっていた。なので、自分のことをまるで欠陥品と言わんばかりのこの言葉に怒りを覚えた。そもそも選挙権がない当時の自分に対して、有権者が勝手に教育を決め、勝手に失敗と言い放ち、それが自分や同年代の人達にニュースで伝わってくることが全く理解できなかった。間違っていると思った。大人というものに対する不信感や怒りが自分の中に芽生えた。
当時父親にその話をしたことをいまふと思い出した。その時に言われたことは「大人にもいろんな人がいる」だったような気がする。きちんとした言葉は思い出せないが、そんな意味だったと思う。これに妙に納得したけれど、何とも言えないモヤモヤが残って、今も続いている。
僕はどちらかといえば、工業化時代に作られた学校というシステムを、それなりにうまく乗りこなしてきた方の人間だ。自分の感情を時には抑え込み、合理的に、無駄がないように時間を使うことが正義だ。時間が足りなくなるのは自分の怠けが原因であり、自分の無能さを何度も何度も馬鹿にしてきた。キャパが足りないから時間で全てを稼いできた。集中すれば夜通しで作業しても丸2日くらいはある程度のパフォーマンスを維持できるし、食事にもあまり興味がない。死なないだけの栄養素を自然に自分の体内で生成できたらいいのに。と今でも思うくらいだ。
長生きにあまり魅力を感じない。年金が貰えない世代と言われ続け、バブル時代の「あの頃はよかった」話を沢山聞いた。そんな良かった時代なんて知らないし、どうでもいい。自分が死ぬまでに何をやりたいのか、という問いに関連すること以外にあまり興味がない、というのが本音かもしれない。
いつからかわからないけれど、とても恐怖を覚えることがある。自分より下の世代に、自分が抱いているものと同じ感情を抱かせてしまうことだ。もうすでにそれを発生させてしまっているかもしれない。いつの間にか「大人」というグループに入ってしまったから。この「大人」というグループが「機械論的社会」と個人的には一致している。そしてその対義として、「生命論的社会」にいる人は僕の中では「子供」というグループに属している。僕はもしかしたら「子供」で居続けたいだけなのかもしれない。
「子供」というのは、時間が無双している人達だと思っている。人の顔には多面性があるから、「社会」という檻のなかでみんな自分の「子供」の一面に蓋をして「大人」として生活している。そして、授業という大義名分の元で「上手に蓋をする方法」を学ぶ場がきっと学校という場なのだ。
これを教師自身が指摘するのは結構勇気がいることだ。
なぜなら、僕を含む先生というグループに所属する「大人」という人たちは「蓋をする方法」に習熟したうえで、「蓋をする方法」を再生産する使命を社会に要請されてきたからだ。
でも、いまその「社会」自体が揺らいでいる。盲目的に信じてしまっていた時にはその「蓋」にすら気付かなかったけれど、いま、多くの人がそれに気づき動き出しているということなんだと思う。この1年間感じてきた怒りはもしかしたら「蓋」に気付かないふりをする人たちを大量生産してきた社会構造に対するものなのかもしれない。いや、きっとそうだと思う。
学校において、反転授業やPBLを行うということは、「蓋を外して子供になる」ということを教えることだと最近理解してきた。蓋を外すと教室にカオスが生まれる。生徒達のなかに、進むペースや内容に対する熱量の温度差が生じる。このカオス的な状況は、少なくとも「学校」というものがデザインされた工業化に向かう社会の中では絶対的な悪だったはずだ。そもそもの目的は「多くの人に統一的な技術や価値観を持たせること」だったからだ。
次の社会構造には「多くの人に統一的な技術や価値観を持たせること」は必要とされない。そんなものは機械やプログラムができるようになるからだ。いま僕が過ごしている教室で起こっていることと同じだ。授業はYouTubeの動画で十分(なんならこちらの方が好評)であり、教師としての僕は生徒との対話や生徒同士の対話を発生させるために必要なことをいつも考えている。対話というのは空間と時間の余白に生まれれるものであり、旧来の一斉授業では対話は生まれない。昔の学校だって、ちょっと授業をサボってグダグダ喋った近所のたまり場で友人との対話が生まれたはずだ。職場じゃなくて飲み会で対話が生まれたはずだ。それを学校という(現段階では)フォーマルな場で引き起こすためには、場の転換というのが必要なのだ。
学び3.0との出会い
学び3.0という考え方があるらしい。旧来の学校で行われた学びを1.0、自分の内から生じる好奇心に従って探求するような学びを2.0、そして、そのちょうど中間にある学びを3.0と呼ぶのだそうだ。最初これを聞いた時に掴めるようなつかめないような話だなと思った。
物理という学問に少しでも触れたことのある人は、この「掴めるようなつかめないような話」という感覚をよく知っているのではないだろうか。それと出会ったときに「掴みたい!」という衝動に駆られてしまうといてもたってもいられなくなった経験があるのではないだろうか。
僕は自分の心ががモヤモヤした状態になると、それを解消したくて堪らない衝動に突き動かされて生きてきたので、いま、まさにこのモヤモヤと戦っている最中だ。
今日この文章を書き始めたのが、現段階でこのモヤモヤを「自分の言葉」で整理する準備ができたからなのだと思う。
僕の言葉で学び3.0を説明すると、「子供」と「大人」の状態を行き来しながら学んでいる状態、である。
この学び3.0という状態を獲得するためには様々な視点からのアプローチが可能である。
その辺りが、先に紹介した本に書かれていることだと僕は認識している。
反転の反転
今日、なぜこのタイトルにしたのかを記して、今日の話は終わりにしたい。
もともとこんな感じで文章をnoteに書こうと思い立ったきっかけはやはり「反転授業」に取り組もうと思ったことにある。
反転授業というものを実施しようとすると、そもそも「反転授業」で学んだことのない人は不安な気持ちでいっぱいになる。
こんな形で教育をして良いのだろうか?
本当に生徒の力が付くのだろうか?
不安の種類には枚挙に暇がない。実施した経験のある人にしかわからない感覚だと思う。
それを解消するために、自分がオンラインで「反転授業」を経験したいと思っていた。でも、なかなかそれが出来ずにいる、と先ほどまで思っていた。
今日気付いたことは「反転授業の研究」グループでの活動は、実は「反転授業」だったということだ。
1回1回のオンラインイベントに参加しても、それ単体で得られることは大きくはない。しかし、そこにいる人たちとのフラットな関係性やそこで起こる自分と他者の対話、他者同士の対話を聞く中で、自分の内からにじみ出てくる問いと沢山出会うことができる。
その問いを消化するために普段の生活のなかで物事を見る視座を変えたり、行動を変えたりする。僕の場合は、「オンラインイベントで出会う人たちのように、初対面の相手と自然と対話できる人間というのは、どうしたら教育できるのだろうか?」
というのが主な問いだった。
この問いの答えはまだまだ見つかっておらず試行錯誤している段階だが、少なくともいえることは、じわじわと対話につながる仕掛けを作り続けるしかないということだ。
そんなことが少しつかめてきた矢先に、「出現する参加型社会」を読んだ僕に起こったこと、それが「反転の反転」である。
本来、反転授業というのは「コンテンツの事前インプット」→「他者との対話の中でのアウトプット」という形式だ。
しかし、今回自分に発生したのは、これと全く逆の現象だった。つまり、
「他者との対話の中でのアウトプット」が実践知として先にあり、
その実践知について書かれた本を後から読むことで「経験したことのあるコンテンツのインプット」が発生したということである。
そこで頭に思い浮かんだのが、「反転の反転」という言葉だ。
反転の反転というのは、意味として「元通り」ともいえるのだが、元通りの「一斉授業」である学び1.0とは全く異なる感覚を得ている。理論を読めば読むほど実感を伴うような感覚。自分の体験したことが書かれている小説を読んでいる気分だ。
おわりに~読書会でご一緒させていただいた皆様へ
いままで、自己に蓋をして、自分に鞭を打って必死に走ってきたので、自分の内側の声がかなり弱ってしまったいたことに、今日のオンラインの読書会に参加して気付くことができました。非暴力コミュニケーションや、U字理論等の話を参加者の皆さんがかみ砕いた形で話してくださったなかで、実は頭の中がぐらぐらしていました。
その状態で、怒りを感じ続けたこの1年間を俯瞰したときに、今自分がすべきことは、自分ときちんと向き合うことなんだな、と思い、思ったことをそのまま書いてみました。自分の中の「子供」が、楽しくおしゃべりした結果の文章なので、拙い部分もたくさんあると思いますが、何か感じたことがあれば、コメント等いただけると幸いです。