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忠敬先生の足跡 5 『4-12田子村』
□ 伊能忠敬第四次測量 12日目
享和3年3月6日 (新暦1803年4月27日)、伊能隊は前日に連泊した沼津城下から田子の浦の田子村まで測量でやって来ました👣
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※角に🏣郵便局があった場所が宿泊したとされる場所です。
現在は郵便局がこの場から撤退して
空き家になっていました。
伊能忠敬測量日記に記された郷里の佇まいを探求していく投稿の5回目です。
今回は田子の浦港でも有名な田子村から、蒲原宿で休憩を取り、由比宿まで測量した足跡👣と地元の魅力を再発見する旅です。
田子の浦と言えば、山部赤人の有名な詩がありますが小学生の頃は怪獣ゴジラと対ヘドラが対決するヘドラが誕生した地として認知していました😅
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※今、見直すとヘドラの方が巨大怪獣だったのですね。
伊能忠敬測量隊が宿泊した場所は東海道から逸れている現在の県道341号水神田子浦港線より海沿いため、脇本陣や本陣ではなく、宿舎として助左衛門の邸宅を間借りしたようです。
恐らく、助左衛門はこの田子村の町名主だったかもしれませんが、几帳面な伊能は日記に宿泊した宿舎が町名主の邸宅には、ちゃんと「町名主」と記しており、田子村の宿舎には町名主の肩書きが記されておりませんでしたので、町名主に準ずる方だった方だったかもしれません。
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江戸時代は士農工商という身分制度に加え、町人や百姓は直接、町奉行に陳情することは許されず、庄屋・名主・肝煎と、地方三役と呼ばれた村の差配を郡代や代官に代わって取りまとめていました。
多くの場合、名主は安普請の長屋の店子を仕切る大家さんの顔も持ち、五人制とも相まって町名主は町人たちの家族構成まで把握していて、いろんな相談にも親身に耳を傾けた世話人です。
各村々の差配を任されている町名主に蒲原宿や吉原宿のことを調べ出したので、もっと詳しく解ったら訂正します。
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※眼下に広がるのが田子の浦港です。日本有数の紙パルプの工場群が広がっています。
田子村での宿泊先は県営・田子の浦みなと公園が近くにある場所ですが、JR東海道線・吉原駅からは🚶🏻徒歩で一時間ほど歩きます💦
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※ここから覚悟のスタートです❗️
最寄りの🚌バス停がないので🚕タクシーも考えましたが、忠敬先生が歩いているのに、楽してはいけないと思い直し吉原駅から歩きます👣
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途中、何度か誘惑に負けそうになりました🤣
田子の浦港は凹型になっているため、直線距離で歩けず、🏭工場や港湾施設を迂回して行かなければなりません。
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更に、田子村から蒲原宿までの歩測ならぬ実地見聞が今日の本番が控えているからです。
でも、発見もありました。
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※詳細は🪧をご一読していただきますが、
明治18年竣工の土木遺産です。
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※🚕や🚙で来たなら、見落としていた土木遺産です。
労を惜しまず💦汗をかけば、思わぬ発見もありますし、勉強になります。先人の方々の想いの一部を垣間見ることが出来ました。
振り返れば、🗻富士山❣️
今週には初の⛴海外豪華客船が接岸するという田子の浦港です。
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※やはり山容が美しい末広がりですね😍
ここまで来れば、田子村まであと13〜14分で元気が出て来ます。左に曲がれば田子の浦漁港の漁港食堂も見えてきます。ここでお昼を取ることで休憩も兼ねます。
漁師の方々が採れたての新鮮な海産物を提供して下さり潮風に吹かれながら、ワイルドに食べる、まさに醍醐味ですね。
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※この先に目指す田子村・田子の浦みなと公園があります。
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※この日昼時とあって賑わっていました。
背景の松並木が田子の浦みなと公園と防波堤を兼務する県営の公園です。田子の浦港から移築された山部赤人の歌碑もあります。
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※もう既に生しらすと湯でしらすの赤富士丼は完売していました。
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※採れたての赤身とシラス、美味しゅうございました😋
長い行列に並びようやく手にした紅白丼、美味しかったです。
吉原駅からここまで4048歩、距離3.1km、消費カロリー181kcalだったので、せっかくの🍺ビールは遠慮しました。
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※山部赤人の歌
「田子の浦ゆ 打ち出て見れば 真白にぞ
富士の高嶺に 雪ぞ降りける」
万葉集第三巻の余りにも有名な歌です。
この公園にその歌碑があります。
伊能忠敬測量隊も測量中は禁酒ですし、私もあやかります。食べ終わって忠敬先生が宿泊した田子村の助左衛門邸宅跡地に向かいます。 漁港から徒歩1938歩、距離1.4km、消費カロリーは90kcalしか使っていません。
ビールはお預け、正解です😅
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※宿舎があったとおぼしき場所です。
現在はレリーフ一つありませんでしたので、
あくまで推測の域です。
で、ここからが本番です。
ここは海抜4.6m。田子の浦みなと公園からかなり下った場所です。
この場所から富士山の方向は北東にあります。
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この場からの富士山の眺望も
恐らく、伊能忠敬隊一行も眺めたことでしょう。
田子村に宿泊した旧暦3月6日の夜は、🔭天体観測が出来るほど晴れていたので、忠敬先生もきっと、この地からこの🗻富士山を眺めたことでしょう。
伊能の🗻富士山山頂の標高の計測は、第二次測量の90日目・享和元年7月4日(新暦では1801年8月12日にあたる)洲崎村(千葉県館山市)の時が初めて、試みました。
この日はあいにく☁️曇っていたようで、富士山・伊豆大島が見えなかったので、逗留するのですが、翌日は☔️雨で再び逗留するも天体観測も出来なかなったことから、翌日も富士山は測量出来なかったと、思います。
翌々日の7月6日に、滝口村に向かうのですが、出発を遅らせて洲崎村にて2日越しで🗻富士山を計測出来ました。
忠敬先生の測量に向き合う真摯な姿勢に、只々感服致しました🙇🏻♂️
一度、決めたことはやり抜くというこだわりと、自分に甘えないストイックな態度は、測量隊一行にも向けられます。
その姿勢は、身内にも公平に向けられ、実家・佐原の商売を忠敬の後継と託された娘婿の商売上の失敗を断じて許さず、娘婿である夫を庇った実の娘共々、勘当したほどです。
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※江戸時代の商家は、厳しいしきたりが多くありました。
そぐわない当主は、勘当されてしまうこともあります。
今年のNHK朝の連ドラ『らんまん』でも主人公の牧野万太郎扮する神木隆之介さんが商家を出て行こうとする際に、
「おいを勘当してくれ」と言えば、
ご当主・大奥様扮する松坂慶子さんが
「おまんを絶対、許さんぞね❗️」と、厳しく言いつけるシーンがありました。
伊能も恐らく、娘婿を愛すべき存在だっただけに、余計に許せなかったのでしょう。庇う娘の気持ちも実父が故に赦すわけにはいかなかったのでしょう。
商家を無心に支える家族・親戚・使用人の手前、身内に甘い姿勢は取れませんでした。
〝泣いて馬謖を斬る〟と言う断腸の想いだったはずです🥹
標高の高さを求めるべく前日の沼津城下や前々日の三島宿でも富士山を計測しています。
この第四次測量中、9回も富士山の計測を試みています。
第四次測量に出発したのが、享和3年2月25日(新暦では1803年4月16日)で、4日目にあたる大磯宿に泊まる2月28日から始めています。
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※晴れていれば、江ノ島の先に🗻富士山が見える
絶景ポイントです。
最初は享和3年2月28日 江ノ島から🗻
2回目享和3年3月3日 三島宿から🗻
3回目享和3年3月5日 沼津城下から🗻
4回目享和3年3月9日 由比宿から🗻
5回目享和3年3月13日 駿河城下から🗻
6回目享和3年3月27日 弁天島から🗻
7回目享和3年3月28日 白須賀宿🗻
8回目享和3年4月5日 吉田村(愛知県田原市)🗻
9回目享和3年4月27日 師崎村(愛知県知多郡)🗻
但し、知多半島からは曇っていて富士山は計測出来なかったようです。この日は測量をしていますので、晴れてはいたのでしょうけど、🗻富士山周辺は曇っていたのでしょうね。
稲村ヶ崎からの富士山撮影に失敗したような天候だったのでしょうね。
でも、知多半島からでも晴れていれば🗻富士山が眺めることが出来たのですね。
伊能はチャンスがあれば、測量の傍らで🗻富士山を計測していました。
並々ならぬ❤️🔥情熱です。
伊能忠敬公の富士山の測量にかかる❤️🔥情熱の一端は、第二次測量の日記に垣間見ることができます。
前出の第二次測量の90日目・7月4日以降も、後半112日目、享和元年7月26日 庚子(1801年9月3日 木曜日)の📓日記に
「日の出に犬若岬において慶助、富士山を測る。
着後19日より富士山の方位を測らんと日々手分けし、高きに昇り遠へ出しけれど、日々蒙気おおくして見えざりき、此朝富士山を測得たり。そのよろこび知るべし。予が病気も最早全快に及べり。」
2次測量日記 第4巻 享和元年7月26日 条
と、記して沈着冷静な伊能が珍しく喜びを筆にしています。
7月19日に千葉県飯沼村東町(現・銚子市)に到着した伊能は、体調が思わしくないため、二女・篠の嫁ぎ先である宿舎に連泊し、幸い3日間は雨のため長逗留しますが佐原市にいた伊能家の親類4名も見舞いに駆けつけるほどでした。
伊能の故郷・千葉県佐原市と銚子市は距離にして39.5km。電車・自動車に自転車までない時代は徒歩です。
🐴馬は伝馬制での早飛脚に用立てられていますから、親族4名が1日かけて👣歩いて来たことでしょう。
にも関わらず、🗻富士山の測量を実行するために、飯沼村東町に留まり、ついに26日、この地での富士山を早朝に成し遂げ、本人もわざわざ日記にその事実を記しています。
一週間かけての測量に、伊能は自らの蒙気(気が滅入る病い)が快復したようだと、🤩喜びを爆発させてその達成感を味わっています👏🏻
思い出せば、私も経験したことがあります。
北アルプス、北穂高、奥穂高の登頂の帰路、穂高連峰がパノラマ撮影出来る撮影スポット・竜頭の頭で、35mm一眼レフカメラで三脚をたて、撮影していました。
何とそこへお弟子さんたちを連ねた山岳写真家の第一人者・白旗史郎氏が徳沢園から登って来られました。
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※山梨県奈良田温泉郷にある白旗史郎記念館にある
氏のありし日。
私にとっては雲の上の存在です。
友人は歴史や兵器のことは詳しくとも山のことは素人ですが、カメラも高校時代に写真部にいたことだけあって、自負があります。
お弟子さんたちが中盤カメラ・大盤カメラを構え露出計で撮影環境を整えましたが故・白旗史郎氏は一向にファインダーすら覗きません。
そんな友人はどうしたのだろう?と問いかけて来ます。私は氏を憚ってカメラの撮影を躊躇していると、私に対して奥穂を指差し
「僕のことはお構いなく撮影してくれていいよ。僕は奥穂に架かるあの雲が涸沢と奥穂の肩にかかるまではシャッターを押さないから。」
と、白旗史郎氏は笑顔で語りかけてくれました。
奥穂に架かる雲が穂高と涸沢の稜線の肩にかかるまでは悠に2〜3時間はかかることでしょう。自分の思い描く構図になるまではカメラを設営してもシャッター押さない、一枚の山岳写真に賭ける真摯な態度とストイックな姿勢。
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※故・白旗史郎氏の作品を初めて目にしたのは、高校時代に拝読した山岳雑誌『山と渓谷』でした。
仕事とはこういうことなのだと、ご教示いただいたような思いでした。
私の撮影する山の写真は、単なるスナップ写真で山岳写真などと号てはいけないのだ、と痛感させられました。
伊能も測量に賭ける想い、ストイックな一面があります。単なる好奇心だけではここまで測量をし地図作成に一位専心に取り組めません。
前話の由比宿の回で投稿をした際に披露した三角比のsin・cos・tanの正接:タンジェントを用いて、伊能は富士山の標高を測っていました。
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※象限儀を用いて〝なす角〟つまり仰角を測って、底辺にあたる距離をタンジェントを乗じて標高を導き出します。
※sin・cos・tanの各々0°〜90°まで小数点第3位までは表にしましたが、忠敬先生が用いたのは、更に小数点第3位からもっと値を求めて標高を算出したと思われます。
師匠の高橋至時と検算した際の正解さに二人が抱き合って歓喜したほどの近似値です。
まさに伊能忠敬、恐るべしです👍🏻
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※通称〝しらす街道〟が県道341号線で、道はこの場所で大きく左に曲がります。
ここから富士川は更に西に700mほど向かったさきを南北に流れています.
本来なら富士川まで出て、ロシア艦隊のプチャーチンが乗船してきて地震の余波を受けて駿河灘に沈んだティアナ号の錨を見物したかったのですがそこまでの体力がなかったため忠敬先生が休憩した蒲原宿へ急ぎ向かいます。
国道1号線バイパスの角にマクドナルドがありますから、まずはそこまで歩こうと意を決した際に富士山が右手に再び見えて来ました。
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※測量中、伊能忠敬も度々富士山を見入ったことでしょう。
富士川には国道1号線バイパスと旧国道1号線に富士川鉄橋が架かっています。ルートの詳細が判らないので車で旧国道1号線から川成島→田子の浦・鮫島地区に向かい、徒歩では田子の浦・鮫島地区→川成島→蒲原宿まで向かいました。
残念ながら、その後に🇷🇺ロシア艦隊・プチャーチンが乗船したティアナ号⚓️の錨が飾ってあるレリーフも探しましたが、解りませんでした。
国道1号線バイパスの富士川渡河は車では何度も通行していますが、徒歩では初めてです。国道1号線を歩きながら、徐々に迫る富士川を前に、五貫島「道の駅・富士川」で小休憩です。
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※ここからが今日一番の峠・富士川渡河です💦
富士川は当時、渡しで渡河していたようです。日本三大急流にも数えられ川幅もある富士川の渡河は、渡ったことしか記されていないため、流石の忠敬先生も駄賃を払って、舟で渡ったことでしょう。
その後、富士川の渡河は川の増水状況に応じて、上船居・中船居・下船居と船渡場があったようで、富士川を渡河する場所がその日によって変わっていました。
忠敬先生の日記では、富士川を渡河したと記されているだけなので、どの場所から富士川を超えたかが判然としません。
🫵そこで、歩測の1回目は国道11号線バイパス、2回目は旧国道1号線を歩測することにしました💦
1回目
国道1号線バイパスは真っ直ぐなだけに、しんどかったです🤣
遥か遠くに見える浜田山や薩埵峠に浜石岳、歩いて歩いても近づきません❗️
普段、車では訳無く走っていますが、やはり車は贅沢な乗り物で、自動車税が課税されるのも仕方ないなぁと、実感しました。
と、同時に伊能忠敬測量隊の方々は歩いただけであんなに正確な🗾地図を作成したなんて、🎞『大河への道』で、主役の中井貴一さんの台詞を思い出しました🤔
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※気が遠くなるような思いで歩き続けました👣
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※富士川河口のなんて広いこと。
振り返っても振り返っても富士川橋梁の真ん中に来ません。忠敬先生一行はどんな気持ちで日本三大急流の富士川を渡ったのでしょうか。
渡り終えてからも小休憩を取った蒲原宿まではしばらく歩きます。🏭日本軽金属蒲原工場の施設も巨大です。工場の電力を賄うべく水力発電も利用するほどです。
この巨大工場の脇にひっそりと『浄瑠璃姫の碑と六本松』がありました。
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※頼朝の弟・九郎義経の後を追いかけて、
ここまで来た浄瑠璃姫。
浄瑠璃姫の塚の目印に六本の松を植えたとする言い伝えが
あります。
昨年放映された📺NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、新しい頼朝像と義経像が描かれていて、『吾妻鏡』をテキストに、日本史特講・日本史概論を勉強して来た私にはとても新鮮でした。
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※三谷幸喜さんの脚本、素晴らしいかったです。
その美男子・九郎義経の後を追って来たのは、静御前だけでは無かったのですね。浄瑠璃姫は三河矢作宿から来たようですが、時に美男子は罪作りなことをしますよ。
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※県道396号・通称富士由比線沿いには、九郎義経が浄瑠璃姫に文を送るために、硯に水を得るためここの湧き水を利用したことから「源義経硯水の碑」まであります。
蒲原モータースのすぐ傍にありました。
この浄瑠璃姫の碑から蒲原宿に向かう背景にあるのが蒲原城があった蒲原城址公園がありました。
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※標高138m、地元では「しろやまさん」と呼ばれています
ここは、天正10年(1582年・本能寺の変があった年です)に廃城になるまで、蒲原城があり今川・北条・武田の最前線で、〝境目の城〟とまで言われた山城がありました。
蒲原城の最後の城主が北条新三郎です。
蒲原宿の外れに北条新三郎の碑があります。
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駿河の太守・今川義元の提唱で、武田信玄・北条氏康が天文23年(1554年・桶狭間で義元が横死する6年前)に、〝三国軍事同盟〟のような「甲相駿三国同盟」を締結するまでの間、蒲原城は重要な拠点でした。目の前は、官道とも言える東海道が東西に延びています。
駿河灘迫る蒲原宿は富士川を渡河すると、浜田山が聳えているため、どうしても南側の平坦な東海道を西進するしかなく蒲原は交通の要衝でした。
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※今はなき善得寺で三英傑が目見え、同盟が交わされました
そのため、この同盟を「善得寺の会盟」とも呼ばれています
善得寺は富士にある禅宗の寺院で、今川義元が幼少期、禅の修行に没頭していた場所でした🙏🏻
富士川は日本三大急流の一つで、川の水量によって上・中・下と渡河場所も変わっていました。
伊能忠敬一行が渡河した場所は、何処かは調べてみましたが、判明しませんでした。測量日記には淡々と富士川を渡ったとしか記述がないため渡し場が上りか、中路か、下り場は解りませんので、一般的に有名な上り場だったら、と仮定しこれからは進めていきます。
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※富士川大橋の袂に小休憩した石碑がありました。
この富士川の袂に、前から気になっていた🥟餃子のお店があるので、小休憩しながら餃子を堪能させていただきます😋
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※紫蘇入り餃子に致しました。
6コ、8コ、10コと選べます。
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※ジューシーな合い挽き肉に、キャベツ、紫蘇、
とっても美味しゅうございました😋
餃子と言えば、🍺ビール❣️
🍺ノンアルコールビールで喉を潤し、落ち着いたところでいただきます。
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※この先に見える緑色の欄干が富士川鉄橋です。
餃子を食べ終え蒲原に向けて再出発です。
⛩️水神社があります。
平安時代、専制君主として世を思い通りに動かした白河上皇。その上皇でさえ思うがままにならず手を焼いたのが、🎲賽の目と、比叡山僧徒の山法師に、賀茂川の水と嘆いたと、言いますから急流の富士川なら、さぞかし手を焼いたことでしょう。
富士川が増水や濁流で暴れないように、水の神様に鎮撫して頂こうと🙏🏻願ったのでしょうね。
水にまつわる神様で、忠敬先生のことですから、きっとお参りして渡ったと思います。
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※創建は1646年、江戸では増え続ける人口増問題に対処するため
幕府は干潟を埋め立て佃島を開墾した頃です。
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※水神社の前を通り、初めて徒歩で富士川を渡ります。
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※水神社は富士川の東岸にあります。
富士川を私財を投じて開鑿なさった方がおられます。
角倉了以《すみのくら りょうい》です。
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※角倉了以の像は京都・二尊院にあるそうです。
了以は京都の豪商でした。
了以は京都の保津川や高瀬川の開鑿も手掛けています。保津川では私財150億円を投じて完成し、その通行料で元を取った商人ですがその了以に江戸幕府は慶長12年(1607年)に富士川開鑿を命じます。
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※📖文豪・森鴎外の小説『高瀬舟』の書き出しに
「高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。」と。
高瀬川は角倉了以が開鑿した運河で、慶長19年に完成します。
江戸時代、徳川幕府は京都の罪人が遠島を申しつけられた場合に高瀬舟に乗せ、大坂に回航させました。
この京都三条に土佐藩・京都屋敷があり、坂本龍馬が潜伏していた宿もあります。
水路はこの岩淵河岸から山梨県鰍沢河岸《かじかざわ かし》までの18里(71km)を難工事の末に完成その後、明治44年に中央線が開通するまでの300年間甲信地方と静岡を結ぶ大動脈として担います。
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※このあたりが富士川の上り渡場です。
この先に了以の功績を讃え、富士川の開鑿を命じられた門倉了以の碑がこの先にあります。
それにしても江戸時代初期に角倉了以といい、玉川上水を開鑿した玉川兄弟といい
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※県道の脇、ガードレールの外にひっそりとあるので、気づかない方も多いと思います。
岩淵河岸には古くから
「🌾下り米・🧂上り塩」と言われ、海のない甲斐国では塩は大切な戦略物資でした。北条氏と今川氏・北条氏が対立した際に塩の交易が途絶え、宿敵・上杉謙信が塩を送ったことから言われた
「敵に塩を送る」の格言は、甲斐国の切迫した事情があったのです。
富士川を渡り岩淵から東海道はS字の勾配の上にある光栄寺に向かって登り始めます。
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※左に上がっていくと下の写真となります。
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※ここを上がり切ると間宿・岩淵です。
間宿とは、宿と宿の間が離れ過ぎた場所で、富士川や薩埵峠の急所を超える手前に中間的な宿所として
岩淵や由比の先・西倉沢に設けられていました。
東海道はここでも枡形に屈折しています。
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ここから程なく、小休憩ができる脇本陣常盤邸がありますが土日でないと開館していないので、通り過ぎていくだけです。
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※新豊院に向かって旧東海道を西進します。
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※西進しながら振り返るとこの景色です。
忠敬先生一行もご覧になられたことでしょう。
旧東海道を西に向かうと、新豊院《しんぽういん》が道沿いにあります。新豊院の目印は街道沿いに公民館があることです。
創建が1199年ですから、「鎌倉本體の武士」と称された鎌倉時代の有力御家人・梶原平蔵景時公の西進も見届けたはずです。
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※古刹の新豊院の双剣は古く、鎌倉時代の正治元年(1199年)。
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※左の法面が東名高速道路です。
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※榎木が植えられています。この榎木は看板によると、二代目だそうです。
岩淵の一里塚も枡形に曲がり、富士川第一小学校を経て、蒲原宿へ南進します。旧東海道は東海自然歩道バイパスコースとして看板に描かれていました。
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その後、東海道新幹線を線路を潜り、南進を続けると富士市中之郷に至り、東名高速道路の高架を渡ります。
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この中之郷を分断するかのように東名高速が東西に延びています。
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※この右手の下を東名高速道路が延びています。東海道はここからまた岩淵に向けて
降り始めます。
ここは明治天皇が江戸へ遷都される際に、休憩を取った場所で富士山も眺めたと伝わっている富士山の隠れた撮影スポットでもあります。
旧東海道は川沿いにある七難坂を通っていましたが、度重なる富士川の氾濫で新たに開鑿された坂道で、号て「新坂」。
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※旧東海道は左の法面から高架で渡り、蒲原宿へ下がっていきます。
ですから、東名高速道路の路線橋も「新坂橋」。新坂橋を降りて来ると右手に光蓮寺があります。
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※この下り坂を降り切ると、義経が浄瑠璃姫にラブレターを書いた硯水の碑があります。
T字路になっていますので、蒲原宿へは右に曲がり西進します。歩き出すと、先ほど紹介した蒲原城の城主だった北条新三郎の碑があります。
元気を出して細い路地を登っていくと、ひっそりと碑がありました。
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※永禄12年(1569年)12月6日に武田信玄の猛攻を受け蒲原城は落城します。
城主・北条新三郎は小田原北条氏の家臣でした。
当然、甲斐武田と関東北条氏は手切となりました。
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蒲原城主・北条新三郎は蒲原城から抜け出しますがこの地にあったとする常楽寺に逃れ
ここで寺に🔥火を放ち自刃します。
北条新三郎の碑を後にし、再び蒲原宿へ向かいます。
まもなく蒲原宿の入り口にあたる東城戸の跡を過ぎ、蒲原宿に入ります。
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※枡形に東海道が屈折していたことが解る地形です。
蒲原宿の東西城戸内は626間・約1.15kmです。
蒲原宿は鎌倉時代から宿駅として存在し以前は「神原」と呼ばれていました。
元禄12年(1699年)8月にあった🌊大津波で蒲原宿は宿人40人・旅人20人が流される被害を被ったために、現在の位置に移築しました。
吉原宿や大須賀宿も津波被害で移築していて、当時は津波警報がなかったことから突然、🌊津波の襲来を被ってしまったのです。
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※旧東海道が西に延びています。伊能忠敬測量隊は蒲原宿で休憩を取ります。
蒲原宿の街道筋にはにはあちこちになまこ壁の旧商家もあり、旧東海道の名残を感じさせます。
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※どれも東海道が賑わっていた頃の歴史を彷彿とさせる展示です。
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※左に曲がるとJR東海道線・新蒲原駅があり、
広重が描いた蒲原宿「夜の雪」のレリーフと桜の古木があります。
右手の🪧は、伝馬制の問屋場跡を示す内容で、宿場の中枢でした。
道の真ん中には、山居沢川が南北に流れています。
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※蒲原・由比は静岡同様に温暖な場所のため
雪は降りません。
広重は訪れたことがないからこそ、デフォルメした浮世絵を描けたのだと思います。
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※浮世絵では、雪が積もっています。
旧和泉屋の手前も枡形に東海道が直角に交差していることが解ります。
ここで小休憩させていただきました。
1階では喫茶も兼ねており、私は喉が渇いていたので、アイスコーヒーにお汁粉を注文しました。
伊能忠敬測量隊もここ蒲原宿本陣木川屋只七で休憩を取っています。
地元の方に伺うと蒲原宿に木川屋と号する本陣・脇本陣はないとのことでしたが伊能の聞き間違いか記憶違いかもしれません。
蒲原宿には「木屋」と号する屋号の渡邊家が営む問屋は、蒲原宿の東城戸のそばにありました。
渡邊家は農業の傍ら天領の🪵材木の商いをしていたことから「木屋」の屋号を名乗っていました。堅実な経営手腕を買われて韮山代官・江川太郎左衛門英毅から蒲原宿の問屋職を命ぜられたのが17代目当主・渡邊利左衛門周玞《のりかた》で、伊能忠敬一行が蒲原宿に休憩していた時の当主です。
もしかしたら、本陣・脇本陣ではなく木屋の問屋で休憩したのかもしれませんね。
蒲原宿・東本陣は多芸家、西本陣は平岡家が営んでいました。
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※ここの1階が現在でも休憩できるようになってました。
休憩処・和泉屋で振舞われたお汁粉。程よい甘さがちょうど良かったです。
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※箸休めのしば漬けも美味しゅうございました😋
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※安政の大地震でも、この二階は崩れなかったそうです。
旅籠・和泉屋は天保年間の建物で、
国の登録有形文化財となっています。
伊能忠敬一行は蒲原宿で休憩を取っている間、曆局へ用状を出す準備をしていると、見舞いとして韮山代官手代・夏目小七郎の来訪があったことを記しています。
日記第6巻19項です。
以前、伊能忠敬一行は第二次測量58日目にあたる享和元年5月30日 乙巳 (1801年7月10日 金曜日)に、伊豆半島の測量を終え、三島駅の宿舎・喜兵衛に逗留します。
その際に、見舞いに来訪した韮山代官手代・山田佐四郎と三河の算術者・斉藤東作と「測量暦談」をしたことを日記に記します。
それが伏線となっての来訪かと思ったのです。
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※蒲原宿で休憩している伊能隊一行に江川代官手代・夏目小七郎が測量見舞に訪れます。
当時は「佐野屋」と、名乗っていました。
和泉屋で休憩している際、地元の方に江川代官手代が伊能の労を労いに来たことを伝えると貴重なことをご教示して下さいました。
伊豆・韮山にある江川代官。
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※伊豆韮山に現存する韮山・江川代官屋敷。
蒲原宿までは伊豆国韮山代官の管轄下にあったそうで、🌊津波被害があった時はもちろん、何かあると韮山代官から🐎馬を飛ばして駆け付けて来たそうです。
伊能忠敬一行が再び、測量で東海道を西進していると知り、西の際にあたる蒲原宿まで見舞いに来たのでしょうとのこと。
蒲原宿までは伊豆韮山代官の管轄下にあったなんて、知りませんでした。
江川家は、家祖英長が天正10年(1582年・信長が自刃してしまう本能寺の変が起こった年です)
三河・遠江に至り徳川家康に仕えます。
天正18年に秀吉の小田原征伐に家康配下の武将として従軍し、後北条氏との和睦の際の功により、韮山代官に任ぜられました。
以来、江川家は代々韮山代官を世襲して来ており、213年もの長きに亘りこの職制を継いで来ています。
ーーここから先は私の仮定、推論ですーー
伊能忠敬が第二次測量調査で宿泊した三島駅は現在の🚃伊豆箱根鉄道・三島広小路駅のすぐそばにありました。
駅前の変形五叉路を東に向かうと、清流の源兵衛川が流れ、⛩️伊豆国一宮・三島大社があります。
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※伊能が宿泊した三島駅は、源兵衛川の右岸にありました。
⛩️三島大社は毎年、作曆家・賀茂家の手で作曆した三島曆を奉納していました。
当時の暦は🌕月の周期を基にした太陰太陽暦に則った京暦を朝廷は採用していました。
京曆が全国に統一された暦ではなく、会津曆・大宮曆・尾張曆・伊勢曆・丹生曆に三島曆など乱立して全国バラバラに採用されていましたが、閏月の算入や月蝕・日蝕の予測が曆によって解釈の違いから分かれていて、全国で商売する商人は日付の違いから来る納期・支払の差異に悩んでいました。
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※三島大社から東へ徒歩3分ほどで三島曆の館があります。
その京曆は極め付きの短所がありました。
人々が不吉の予兆として忌み嫌う日蝕の予測をよく外すことです。月蝕の予測が当たらなくてもほとんどの人が寝静まっている夜に起こる現象ですから、市中はさほどざわつきません。
日蝕は☔️で厚い☁️雲に覆われていない限り、日中に起こりますから、日蝕の予測が外れると朝廷内も市中も🐝ハチの巣を突っついたような大騒ぎとなります。
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※三島大社のすぐそばにあります。
※ボランティアの元高校教諭が信長の改暦介入の件を
解り易く解説して下さいました。
織田信長の支配地、岐阜・尾張・三河は尾張曆を採用し、関東の北条氏は三島曆を採用していて、尾張曆と三島曆は安土桃山時代からほぼ一緒で、かなりの精度で日蝕を予測し閏月算入もほぼ同じでしたが、京曆とは算術根拠が違うため閏月算入も違っていました。
一番顕著で有名なエピソードが天正11年(1583年)の正月に閏月算入をし天正11年正月の後に、閏1月とする京曆に対して、天正10年12月の直後に閏12月を算入するとした三島曆と尾張曆の対立は、商人にとっても他人事ではありません。
🎍正月行事をなどを二回もやるかやらないか?
また、当時の商習慣で年末大晦日に支払期日の支払いが一月先に延びるか否かは商人にとって大問題です。
そこへ織田信長が尾張・三島曆への改暦を持ち出したことで、〝政治問題〟となってしまいました。
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※織田信長は、作曆の専権事項として握っていた土御門家に
楔を打つことになりました。
改暦介入問題は、天正10年に入ってからの申し入れのため、何とも性急な対応となることからアピール力に弱さを感じた信長が普段は気にもしていない日蝕に関心を持ち出します。
尾張曆の作曆者は信長に、天正10年6月1日に日蝕を予測していますが京曆の暦には日蝕に触れていないことから日蝕が正現(日蝕が起こること)すれば、今で言うエビデンスがあることになると、口添えしていたからです🗣️
そのため、信長は秀吉の援軍要請を受けて中国毛利攻めに参陣する際に京都を通過するので、本能寺で彼が催す最後の茶会を計画します。
結論から言うと、6月1日には日蝕が正現、
欠け始めが午後14:17分、蝕分0.58
復円が16:33分、時間にして、2時間16分の天体ショーとなり、☀️太陽の6割弱が欠ける皆既日食が起こります。
この皆既日蝕は、オッポルツェル日蝕番号6620番として、海外の天文科学誌にも掲載されています。
同席した公家の山科言継は自身の日記『言継卿記』には、当日の天候と日蝕が起こったことだけを記述しています。
早朝は靄が立ち込め曇りのような気配でしたが正午前辺りから雲の晴れ間から☀️が顔を覗かせ天候が回復傾向にあったことも記されています。
信長が催した本能寺の茶会の最中に、恐らく日蝕が起こったはずです。
日蝕の予測を出来なかった京曆から尾張曆に改暦し、天正10年12月に閏月を算入し直せと迫ったことが推測出来ると愚考しています。
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※現在の本能寺は移築され、本能寺の変があった時の本能寺はこの場より南西は1.5kmほど行った元本能寺町辺りです。
※本能寺は二度の大火で焼失しているため、「能」の作りが「ヒ」が🔥火を連想させるために「ヒが去る」と言う縁起をかついで本能寺はこの字になっています。
その後、信長本人は翌日に明智光秀の謀反によって、本能寺の変で自刃してしまったため、改暦問題は沙汰止みとなり、〝無理なることを申す〟張本人は居なくなったために、公家や朝廷は安堵したはずです😮💨
その京曆は、そんな大事件になりかねない苦境を他力本願で乗り越えた後も、僅かな手直しをしただけで江戸時代に入ります。
しかし元が科学的根拠の乏しい京曆は、江戸時代でもよく、日蝕の予測を外して物議を醸し出しますので、伊能忠敬の師匠・高橋至時に改暦の作業に取り掛かるよう幕府から命が下ります。
現在の浅草界隈に司天文台があり、作曆の精度を上げるべく、ここで🔭天文方として天体観測に没頭しています。
参州とは三河のこと、尾張曆の史料が少ないために参州算術者・斉藤東作が尾張曆の作曆者かは判明できませんでしたが、何か繋がりはあるかもしれません。
韮山代官手代も測量談義だけでなく、測量曆談に加わっていることから、伊能忠敬が師匠の高橋至時に助言出来るように、改暦や作曆のことにまで踏み込んだ話しをしていた可能性はゼロではないと、愚考しています🤔
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※蒲原宿の西城戸も枡形に道が曲がっています。
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※左手が旧東海道、右は県道で真っ直ぐ行くと、先ほどの富士川鉄橋の三叉路に繋がります。
県道に出ると一本道。
西に向かって由比宿を目指します。
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※地元で有名なラーメン店・蒲原館
JR東海道線・蒲原駅前にある蒲原館の支那そば。
昼時となると、店の前に行列ができる有名店で、🍜昔ながらのラーメン、たいへん美味しゅうございました😋
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※支那そばの王道です。
蒲原宿の絵図です。
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※ここから由比宿は案外長いので、道中割愛します。
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※由比宿は東西に長いので東の一里塚と西の一里塚があります。
東の一里塚の先に由比宿の東城戸・由比宿の表玄関があります。やはりここも枡形の遺構が残っています。
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※由比宿も徳川家康が慶長6年に制定した伝馬制により、問屋場を設けていました。
由比宿本陣の長い水路状の濠は幅1m、東西20mあったそうで、
🫏馬の水呑場でした。
こうした馬の水呑場は横浜関内・馬車道にもあります。
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※幕末から明治初期にかけて馬車道を牛馬が行き来していたことを窺わせます。
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※ここが由比宿本陣があった場所です。
ようやく、由比宿に辿り着きました💦
伊能忠敬一行はもう少し西に行った脇本陣・羽根屋に投宿します。
(第六話に続く)