「ラーメンを食ってるんじゃない。情報を食ってるんだ。」社会でどう生きるか
なんだかテーマがまったくまとまっていない感じですが、そのうち同じところに収斂していきたい。
インスタ映えと承認欲求
さて、タイトルは、かの有名な「ラーメン発見伝」でのセリフである。
原作中では「ラーメンそのものの味ではなく、そこに付随するストーリーとか、はたまた『この店は〇〇を使っている』という、商品そのものではなく不随する情報を消化している」という感じの意味で使われているが、今日はこの名台詞を少し曲解というか拡大解釈しつつ、今起こっていることを考えてみたい。
とてつもなく今更感があるが、巷では、インスタが流行っており、「インスタ映え」なんて造語もでき、もはや「映える(ばえる)」という、日本人お得意の原型を留めない言葉さえ生まれている。
しかし一方で、これまたずいぶんと話題になったが、今年一斉を風靡した「タピオカ」を始め、「インスタに上げるためだけに購入されて、ほとんど食されずに残される」という事態が起きている。
タピオカ以外にも、このような事例はちょっと調べるだけでいくらでも出てくる。
食べ物に限らず、もはやインスタにあげることが目的となっており、その「コンテンツそのもの(=食べ物であれば、食べること。映画であれば見ること)」を楽しむことは二の次どころか、もはや目的の一部ですらないことすらある状態である。
自分はインスタはやっていないし、それなりに有名なお店なら後でいくらでも写真は手に入るのでわざわざ料理の写真を撮ることは少ない。
撮るとすれば、写真が手に入りにくいお店に行ったときくらいだ。
しかし、「写真だけあればよいのか」というとそういうことではないらしく、みなさん、しっかり自分で撮ることに拘っていらっしゃる。
「人様の撮った写真を、自分のもののように捏造するなんて!」ということなのかはわからないし、それと飲みかけや飲み終わりのタピオカをその辺に放置するのはどっちが悪いのかという気もするが、それは今回の主旨からは外れるので、またの機会にしたい。
いずれにしても「間違いなく自分が経験したこと」を「誰かに認めてもらうこと」の2つが重要な要素なのだと考えられる。
これがいわゆる「承認欲求」というものなのだろう。
自分はインスタはやってないとは言ったものの、TwitterやFacebookは自分もやっていて、何気なく携帯を開いて更新状況をチェックしてしまうのは1日に2度や3度ではない。
Facebookで言えば、遠くに住んでいる友人などと日々情報交換を行うツールとしては素晴らしいと思うし、Facebookのおかげで連絡が取れたり、イベントに参加できたりしたケースもある。
しかしながら、それらの情報がタイムリーに必要かといわれれば、微妙なところである。
ましてや「誰それがどこで何を食べた」みたいな情報は果たして必要か言われれば、心底不要だと思う。
それでもついつい見てしまうのは、自分としては大きく3つの要因、および問題があると考えている。
1つ目は「情報を更新することの安心感」という点
2つ目は「承認する側もされる側も、情報に踊らされまくっている」という点
そして3つ目は、「世の中のコンテンツがより【本能】に近い部分を刺激する、危ういものになってきている」という点
「情報の更新」だけが目的化している
例えば、twitterを何度も見てしまうことを考えよう。
前回チェックしたときよりも、タイムラインへの投稿が増えている。
それだけで安心し、その追加情報をチェックしてしまう。その情報がいかにどうでもよいものであっても。
これは「変化に追従できている」ということからくる安心感であると考えられる。
台風情報や、選挙速報など、そのときになると民放各局は一斉にそのことだけを長時間かけて放送する。
では、ずっとその番組を見ている人はいるのか、というとさすがにチャンネル固定で見ている人は少数派かと思うが、それでも「ついつい」見てしまう。
これは根本的にはtwitterをついつい見てしまうのと同じで、「情報の更新」を行なっているのである。
台風の事例がわかりやすいと思うが、「それが自分にどう影響を与えるのか」という不安があり、それに関する情報は刻一刻と変わるため、順次更新して「安心感」を得ているのである。
しかしながら、これは本来、自分を生命の危機から守るための行動であり、安心感はそのための脳の機能である。
twitterの更新状態はよほどのことがない限り生命の危機にはまったくもってなり得ない。
もはや脳がバグを起こしておいて、本来どうでもいい情報を更新し続けることで、安心と喜びを得てしまっている。
意中の人からのメールを心待ちにしてメールセンターに幾度となく問い合わせるのならまだわかるが(今はLINEですかね)、明らかに「無駄な情報更新」、それ自体が目的化していると言える。
情報に踊らされ、喜ぶ我々現代人
続いて「情報に踊らされている」という点である。
先のラーメンの話もそうだが、「そのラーメンをどれほど美味しく感じたのか」、ということよりも、「そのラーメンは〇〇を使っており、巷ではどれほど人気があるもので、それを私は食べた」という事実(=情報)の方が重要視されてしまっている。
そして、その事実を誰かに認めてもらい、共感してもらうことで、事実としての価値を高めることによって、その経験を最大化しようとしているものと考えられる。
経験を最大化しようと試みることは、決して悪いことではなく、むしろ好ましいことだと思う。
うれしいことがあれば家族や友人にそのことを話し、共感をしてもらって、よりうれしい気持ちが高まる、というのは極めて健全な喜怒哀楽のプロセスである。
問題なのは、最大化のプロセスだ。
まず1つは、冒頭でもあげた通り、本来の目的である「コンテンツそのものをしっかりと楽しむ」ということがすっかり二の次になって、最大化のプロセス側に主目的が行ってしまっている点。
もう1つは、その最大化があまりに簡易になってしまっている点だと考えている。
ひと昔前ならば、自分の経験を共有化するツールなんて、直接話すかせいぜい手作りのアルバムを作って見せたりする程度で、個別にフィードバックを得るしかなかった。
それが今や、写真1枚撮ってネットに挙げるだけで、見ている人からイイネ!とかワルイネ!とか反応が返ってくる。
そこでたくさんの反応を得ることができることの喜びが、そのコンテンツを楽しむことの喜びを上回ってしまっているわけである。
本来、「コンテンツを楽しむ」ということも、そんなに簡単なことではない。
文字が読めない人は本を楽しめないし、冗談の通じない人はギャグで笑えない。
自分も昔はビールはただ苦いものだったし、日本酒も焼酎もただの強いお酒だったわけだが、違いを吟味し、それぞれの特徴とか、なぜそうなるのか、とかを知っていくことで、やっと楽しめるようになってくる。
もちろん、たくさんのイイネ!がつくためにはたくさんのフォロワーが必要で、それも簡単なことではないのかもしれないが、いずれにせよ「コンテンツ本来を楽しむ」ということからは外れてくる。
タピオカをほとんど飲み切らずに捨てるとか、甲子園名物の大盛かつ丼をほぼ残すとかに対し、「もったいない」などの批判があるが、私としては「そもそもそれを、本来の目的でちゃんと楽しもうとしないスタンスが失礼極まりない」という観点で、ちょっと違うかな、と考えるわけである。
とにかく、このように我々現代人は「情報に支配されている」と言っても過言ではない状態になっているわけだが、では、なぜ、ここまで情報に支配されてしまったのか。
本能を蝕むコンテンツ
先の章で、経験を最大化するプロセスがあまりにも簡単になってしまったがゆえに、コンテンツ本来を楽しむ喜びを上回ってしまったことに言及したが、本来であれば「承認欲求を満たす」ということは非常に難しいことだったはずである。
誰かに認められるということは、それなりの努力があり、酸いも甘いも経験し、相手の望むところは何かを見極め、そして、初めて承認される。
それがいまや承認する側も、される側も、クリック一つでできてしまう。
この、極めてインスタントな欲求を満たすプロセスにより、現代の我々は「承認の依存状態」にあるといえる。
私としては、この状態は「麻薬」や「砂糖」への依存と同じようなものだと考えている。
麻薬というのは、「摂取するだけで脳に作用して、なんだか気持ちがよくなってしまうもの」、と私は認識している。
(使ったことはないので、その実は定かではないが・・・)
例えば、運動をしても「脳内麻薬」が出るというが、それがよくて「麻薬」がよくないのはなぜなのか。
私は「プロセスの簡易性」と「報酬の純度」が原因で、「依存症になる」ことがよくない所以なのだろうと考えている。
つまりに、あまりに簡単に、そして、「気持ちいい」部分だけを切り取った効果を得られてしまうため、すぐにそれを求める「依存状態」になってしまうのだろうということである。
では、「砂糖」はどうか。
砂糖というのも、実際にはいわゆる「糖分」だけを精製して取り出したもので、「甘い」という非常に純度の高い報酬を脳に与えるものである。
そして、この砂糖という物質は非常に安く・簡単に手に入り、もはや市販の食品で精製された砂糖が全く使われていないものを探すのは困難である。
糖分も本来自然界においては、それこそ酸いも甘いも、皮も果肉も併せていただく必要があった。
それがあまりにも簡単にいただけるようになってしまったがために、我々は知らず知らずのうちに砂糖の依存症になっているのである。
もともとは砂糖なんてものはなかった南アメリカやオーストラリアの民族に砂糖が伝わった結果、すっかり砂糖依存症になり、もともとはスリムだった民族が肥満民族と化してしまった、という話がある。
彼らだって進んで肥満に、不健康になりたいわけではなかっただろう。
麻薬と一緒で、その危険性についての知識がなく、不自然に純度が高くて簡単にエクスタシーが得られるものを摂取することは、極めて危険であるということが理解できる。
資本主義社会と承認欲求
ではなぜ「承認欲求」がこんなにも高まっているのだろうか。
昔の人は承認欲求はなかったのだろうか。
おそらく、あっただろう。ただ、少なくとも今ほどそれを満たさなくたって生きてたというだけで。
このことも、麻薬・砂糖と一緒である。
麻薬はなくなって人は生きていける
では、なぜ生み出されたのか?
「売れるから」である。
脳を直接的に刺激して気持ちよくなれるものは、売れてしまうのである。
では、砂糖はどうか?
これは麻薬とはできた経緯は違うかもしれない。
少なくとも、麻薬よりは社会的に役に立っている。
しかし、私には、現代人が軽度の砂糖依存症にされ、砂糖なしでは生きれない社会にすることで、砂糖が必要以上に売れる状況にされているとしか思えない。(先の原住民の事例のように)
それでは、SNSの承認欲求はどうか?
これにも、我々は知らず知らずのうちに脳を蝕まれていると考えるのが賢明だろう。
システムの開発者たちは、いかに我々の本能を、できるだけ簡単に刺激し、問題にならない程度の依存症にさせるかを考えていることだろう。
麻薬は、明らかに脳や身体への悪影響があるため、法律で禁止されている。
砂糖は、過剰摂取は肥満やその他成人病などへどつながるため、アメリカでは「ソーダ税」なるものが一部の州で導入された。
日本でも禁止はされていなくとも、「糖分の取りすぎ」が体によくないことは幼いころから教育されるものである。
スマホゲームのいわゆる「ガチャ」については、問題にはなっているものの、いまだにはっきりとした規制は日本ではない状況だ。
そんな中、「SNSで承認欲求を得るのは麻薬っぽいのでダメです」なんてことには絶対にならないだろう。
資本主義社会のもとでは、モノが売れるのはいいことであり、競争原理のもとに売買がなされることによって、経済が回る。
だから当然、「売れる」モノを作ろうとする。
その結果、企業は消費者の「本能」の奪い合いに血眼になっている。
このことについて、企業を一方的に批判することはできないし、あまり意味がない。
今問われているのは、それを拒否する消費者側のスタンスではないだろうか
コンテンツの「本質」とは一体なんなのか?
無批判に受け入れることの危うさが高まっている。ということを、ラーメン発見伝の一幕から思い立ったわけである。
今回は長くなりすぎ、書き上げるのに時間もかかってしまいました。。。
次はもう少しシンプルにいこう。