自分の幸せを定義しなおすこと
僕のある友だちのインスタに『幸せすぎて、不安!!』と書き添えられた投稿があった。それを見つけて、投稿された写真を見てみたけど、何が幸せなのか僕にはあまり分からなかった。さらには、なぜそのことが不安なのかなんて検討もつかなかった。
ただ、その友だちが今なにやら幸せそうだなとは感じた。
人種を大きく分けると、普段からインスタに自分のことを載せれない人間と載せれてしまう人間がいる。するかしないかの問題ではなく、できるかできないかの問題だと思う。「do or donot」ではなく「can or cannot」だと思う。そして僕は前者だと思う。
世間では、前者のような人間は後者のような人間を陰で冷ややかな目で眺めてたり、または水を刺すようなことを考えたりしていると思われがちだけども、実のところはそれは偏った見方だと僕は思っている。
僕みたいな人間はただただそういう人たちがうらやましいのだと思う。自分ができないことをできてしまうことに対しての幾らかの嫉妬に近いものもあるにはあるだろうけど、その感情の大半は羨望だと思う。
だって、僕も自分が幸せだと思いたいし、言いたいもん。
けど、それをうまくできないからこそ困っているのだと思う。
動物園のゾウかキリンかを見ているときと同じようなぼんやりとした真顔で、そういう人の投稿するものを見ているのだと思う。僕もあんな感じでふわっと生きれたらなとつくづく思う。
話は戻るけども、僕は冒頭の友だちのインスタのページに飛んでみた。それがぎょっとするほど本当に楽しそうな雰囲気で、それと対比して自分が悲しくなるよりも先に、頬を緩めておめでとうと言いたくなった。あれは誰かの結婚式に参列したときの100分の1くらいの”おめでとう”って感じだったと思う。
いいなあと思う。
楽しいな、嬉しいなという感情を自分自身に感じたときにそれを誰かに伝えてみたり、SNSに投稿したりすることは”その感情”を定義づけていることなんじゃないだろうか。
自分が感じたそのときの感情を誰かに伝えることが、本当に”その感情”を自覚できることと密接に関わっている。それは言霊と言い換えられそうな考え方でもある。
僕は悲しいとか、切ないとかの感情はわかりやすく自分に感じやすい。一方で、楽しいとか嬉しいとか自覚できるほど、強い人間じゃないと思う。損するタイプの人間だなと溜息がつく。
そんな損するタイプの人は人になるだけ多く自分の楽しかったことや嬉しかったことを他人と共有して、定義しまくったらいい。
ハッピーをハッピーだと判を押さないとそう感じられないのはいささか馬鹿げているけども、その一押しでちょっぴり元気になれるのなら、ベタベタになるまで判を押せばいいのだ。
それがネットの無料のサービスでできるなら得だと思う。
『知らない人には付いていかない』、『自分のプライバシーは自分で守る』とかよりももっと実用的な情報リテラシーを教えてくれなかった義務教育を憎むばかりである。
僕が今読み返している小説の中で気の良い女性は、『私のような無力で不完全な女でもときには生きるってなんて素晴らしいんだろうと思うのよ。だからあなただってもっともっと幸せになりなさい。幸せになる努力をしなさい』と主人公のへなへなで世を憂う青年に伝えるのである。
僕が言いたいのはそんなに大仰なものではなくて、もっと俗っぽいことだけども。小さくて胡散臭くとも、自分の幸せを自分で努めて定義しなおしてみようと思った話でした。
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