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なにかを書きたいけど、やっぱり書けなくて、なんだかなという気持ち

文章を書くことは何かを結論づけることだと思う。

ほら、こうやってまた「○○だと思う」と早くも結論づけてしまっている。

「いや、そうやってすぐに結論づけるのはよくないでしょ」と僕の中にいるいたく慎重な僕が投げかけてくる。そして僕はそれに納得する。そうすると、ほら、なにも書けなくなる。

なにかを自分の中からの言葉で誰かに伝えることは少し僕には難しい。ペーペーの僕が言うことなんて伝わるか分からないし、受け取った人がどう思うかを考えると身勝手にはなれないなと思う。それはきっと柵を自らの周りにせっせこ地面に差し込んでいるだけなのかもしれない。

何かを良いとか、悪いとかを声高々に叫べるほど僕は強くないし、むしろ弱い。居酒屋に行って「食べたいもの頼んで良いよ」と言われても、「これを頼んだら変な空気になるんじゃないか」と思ったり、「これはアリ??」と思ってきて結局、「ああ、僕はなんでもいいですよ」と言う。それくらい弱い、弱すぎる。

そういうときに率先して「うずらの卵の串揚げほしい」と宣言できれば、きっと僕の前にはうずらの卵の串揚げが並ぶだろうと思う。けどだいたいの場合、僕の前にはつくね串だったり、レバーの串焼きが並べられる。もちろん、それらは美味しい。けど、何かが足りないなと僕は思う。


うずらの卵がほしいことすら意見できない奴が政治とか社会について言及できるはずがない。それは僕にとってうずらの卵の串揚げを一気に四本注文するのと同じくらいに難しいことなのである。

酒の席で串一本も注文できない奴がどうしてネットで自分の意見や思いや考えを表明できようか。食べたいものを注文したくても、テーブル囲う人がどう思うかと無駄な詮索をしてしまう奴がどうしてわざわざ知ってる人も知らない人も見るかもしれないここでものを言えようか。


今の僕は居酒屋でつくね串やレバーの串焼きを微妙な顔をしながら口に押し込んでいる僕である。

けど、どこまでいっても、うずらの卵の串揚げを食べたい僕がいる。

けど今日、僕はうずらの卵の串揚げを食べたい人だということを表明できた。それはうずらの卵の串揚げもつくね串もレバーの串焼きも食べれるということである。


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